性美学研究会

現代の性的コンテンツを哲学的に省察してぼちぼち載せるブログ。

「ポストモダンAV論」研究論考

  • はじめに

 我々にとってアダルトビデオ、AVとは何か。我々にとってアダルトビデオは思考の対象なのか、単なる性生活のツールに過ぎないものなのか。まずこのことに関して論じないことには、真にアダルトビデオに迫ることはできないだろう。また、考察を始める前に一つ断っておくが、この論考の中でたびたび出てくることになるであろう「AV」と「アダルトビデオ」は、同一のものではあるが、ニュアンスとしては「オッパイ」と「おっぱい」程の差がある。が、この話に関して掘り下げていくことは本論考の脱線につながるため、割愛させていただき、論の中で使い分けていきたい。それでは、まずは「アダルトビデオは思考の対象か、単なる性生活のツールに過ぎないのか」ということの考察をしていこう。

 まずは、AVを観賞する、ということから考えてみよう。昨今のスマートフォンの台頭により、「AV鑑賞」は相当ハードルが下がった、と言える。これは、昔でいうテレビの役割をスマートフォンが代替するようになった、というだけではなく、国内外の違法サイトやFANZA(旧:DMM.R18)といった、スマートフォンなどでも気軽に閲覧、視聴することのできる環境が整ったことも一因に挙げられよう。この手軽さこそがAVを斜陽化せしめたのではあるが、この「エロいとは何か?」ということに関しては、後述していきたい。

 ともかく、この様にハードルの下がったAVは、より日々の自慰行為の「オカズ」(この呼称は長いうえに下品なので、次回以降「教材」と呼称していく)としての地位は上がったかに見えた。しかし、同じくスマートフォンの普及によりハードルの下がった成人向け漫画や、そこからの派生に近い同人誌などの台頭によって、今やAVの「教材」としての地位はどんどん下がってしまっているといえよう。

 また一方で、AVはその性質上「教材」以上の目的では用いることができない。これはAVの語りにおけるストーリー性のなさから来るものである。金額やかかる時間などを考慮するに、成人向け漫画や同人誌、アダルトゲームのようなどんでん返しやストーリー性を組み込みづらいからであろう。

 以上の点から、アダルトビデオは思考の対象にもなりづらく、「教材」としての地位もぐらついたものであると言わざるを得ない。しかし、アダルトビデオは自身にしかない一点の特徴によって、「エンターテイメント性」と「エロさ」と「人文的価値」を併せ持つようになるのである。本論考においては、「エンターテイメント性」、「エロさ」、「人文的価値」という三つのキーワードを軸にアダルトビデオの価値について論じていきたい。

 

 

  • 第一章 アダルトビデオにおけるエンターテイメント性

さて、まずはアダルトビデオにおけるエンターテイメント性についてである。このことを考えていく際、必ず念頭に置かれるべきでありかつ忘れられてはならないのが、「AVは卑俗なコンテンツである」ということである。ここにおいてアダルトビデオはAVとなり、消費財として「使われる」のである。

  AVのエンターテイメントとしての特徴としてまず第一にあげられるものは、「ストーリー性のなさ」である。例えば若妻を義父が寝取る、というストーリー展開で描かれるアダルトコンテンツがあったとしよう。官能小説ならば行為に及ぶまでの若妻の心に起きる逡巡や葛藤を描くし、18歳以上が対象の美少女ゲームではその後、すなわち寝取られた後の若妻のセリフや行動も描く。しかしAVはそのような枝葉を伸ばさない。あたかも建材として育てられ、建材として使われる木のように、一切の無駄や欺瞞なく性行為にのみ焦点が当てられる。これは、AVにおいて前後が描かれない、という事ではない。描かれるが非常に薄いのである。これは、そもそもAVにおいてストーリーというものを誰も求めていないという点、要するに「使えるならなんでもいい」というものとして扱われている点から生まれるAV独自のストーリーテリングと言えよう。また、同じような登場人物で描かれるアダルトビデオは全て同じような内容になる、ということにも繋がる。すなわち、レーベルの違いや性行為に持っていくまでの薄いストーリーの違い以外、突き詰めれば女優さん(昨今AV女優さんのことを「AV嬢」だの「セクシー女優」だの言う風潮がTVにまであるが、とんでもないことである。我々は常に受け手であり、彼女らは常に本当の意味での「造り手」である。我々が安易にAV嬢などと呼んでいい対象ではない。崇拝の対象であるべきではないが、尊敬の態度は忘れてはならない。)の違い以外の差はないのである。

  何が言いたいのかというと、「ストーリーのないただの性行為の記録映画に過ぎないものであるのに、造り手側の差だけでここまで大きな樹木になっているコンテンツである」ということである。すなわち、終わりがわかっているのに見てしまう映画なのだ。この点においてだけは、アダルトビデオも「君の名は」も「もののけ姫」も「七人の侍」も変わらないのである。「使われる」から「見直される」コンテンツであるという事だ。

  第二には、「視点」があげられる。ことアダルトビデオの世界において視点というものは近年益々注目を浴びてきている。VRの台頭である。恐らくゲーム業界よりも先に最盛を迎えるのではないだろうか、という程昨今のアダルトビデオ業界はVRに積極的だ。これはある種、美少女ゲームをはじめとした一人称的なものとは違い、アダルトビデオ鑑賞者が益々「性への主体性」を消失したことによるものであるのだが、それについては後に述べるとする。しかしVR以前のアダルトビデオにおいても、「視点」は他のアダルトコンテンツに比べて明らかに特殊な作りとなっている。

  例えば官能小説の場合である。これは小説という体裁をとる以上、どうしようもなく「神」の視点を持たざるを得ない。すなわち、視点において上部から状況の全てを網羅的に思考し観察する視点となるのである。また、美少女ゲームとも明確な差異がある。美少女ゲームはメインの視点が主観、または主人公の背後からの視点であり、他のアダルトコンテンツと違い自分と主人公がより密接に重なり合うものである。これにより主人公=私という構造が生まれる。

  しかし、アダルトビデオは全く別の視点を持つ。今日に至るまでアダルトビデオも様々な視点のものが生まれてきた。主観視点物や盗撮物などがそうである。そして、所謂普通のアダルトビデオの持つ視点は、常に様々な視点を持つ。「こういう視点」と明文化出来てしまうような視点ではないのだ。場合によっては盗撮的であり、場合によっては我々が実際の性行為においては絶対に持つことの出来ない視点にもなる。そのような視点は、神の視点でも私の視点でもない。第三者の視点であることは確かであるが、それは全てを包括する視点ではない。そのような第三者的視点に名をつけるとすれば「目撃者的視点」とでも言えるだうか。しかしこの視点は決してアダルトビデオに限った視点ではない。他のアダルトコンテンツで言えば、成人向け漫画における視点もこの視点になっている。これは、官能小説と成人向け漫画との違い、すなわち読ませるか見せるかの違いが最も大きいのだが、視点という点ではアダルトビデオと漫画はよく似ている。我々は行為者ではないし、全ての心情や言動を網羅できる訳では無いが、どうしようもなく目撃してしまっているのである。

  そして最後に-そしてこれが最も今後の論にとって重要な意味を成すのだが-「不完全さ」というエンターテイメント性が存在する。アダルトビデオというコンテンツ自体が不完全なものなのである。

  まず、映画として不完全である。そもそも最近のAVはほぼ映画と呼べるほどのものでは無い。オムニバス形式のものも多く、それらも単に衣装や場所の違いくらいしかないからである。ストーリーのなさに関しては前述したように、他のアダルトコンテンツは重厚に描かれる性行為以外の描写が極端に少ないことからも伺える。

  更に、「教材」としての強度、という点からも不完全である。時に、AVにおいてはとてつもないパロディーAVが作られることがある。成人向け漫画や美少女ゲームにおいてもそのようなものがない、とは言えないが、その模倣の方法、酷さ、くだらなさは他のアダルトコンテンツの追随を許さない。最早「教材」としての販売ではなく、単にではなく笑いを取りに来てるのではないか、と邪推してしまうものさえある始末である。

  そして、ここが1番の重要な点であるが、他のコンテンツと違い、アダルトビデオは人間が演じ人間が行為に及んでいるものなのであり、その点で非常に不完全さを表出させてしまっている。すなわち、人間であるからこその不完全さから逃げられないのだ。あげられる例は枚挙に暇がないが、例えばAVのおねショタものなどは、AVにおける年齢場の制約からどうしても成人男性の小学生コスプレも目に入れる必要がある。また、成人向け漫画や同人誌に散見されるような胸が大きく、腰は細く、美人などというものはそう多くない。胸が大きい女優さんは往々にして体格が良いし、美人な女優さんは往々にして胸は控えめなものである。また、たまにいる凄まじく理想的な体を持つ女性であっても、お尻におできや大きいホクロがあったりする。すなわち、男性が求めるような「完璧な」女性はAVの世界には存在しない。しかも、そのような登場人物達が、これまた「人間的な」動きをするのだ。もっと端的な言葉でいえば、カメラの向こうの誰か(ディレクターや監督か、ADさんかは分からないし、知る必要も無い)を見たりするのだ。普通のAVでも萎えるが、主観物AV(VRものに近いが、VR技術無しに行われるものである)でさえ起きる。このような人間であるからこその、どうしようもない、誰も悪くない不完全さがアダルトビデオにはある。

  しかし、これらの不完全さは全てエンターテイメントとしてのアダルトビデオの質を上げるものなのである。そのような不完全さは笑いを産む。1999年に自ら命を絶った二代目桂枝雀の言を借りるなら、「笑いとは、緊張の緩和あるいは緊張と緩和の同居」なのである。性行為という緊張材料に対し、これらの不完全性という緩和材料が交わる事で起きる笑いである。しかも最も大きいものが「人間の不完全さ」に起因するのだ。これこそがエンターテイメントと言えずして何をエンターテイメントというのだろうか。

 

 

  • 第二章 「エロさ」とは何か?

さて、第二章では「エロさ」の本質について探っていきたい。まずは、アダルトビデオに限らない、大括りの意味での「エロさ」を考えていこう。我々が「エロい」と感じるのはどのような時だろうか。私は、「エロさ」には三つの要素があり、このうちのひとつでも満たしていれば我々はエロいと感じる、と思っている。その三つとは、「経験知としてのエロさ」「あってはならない、というエロさ」「異常であるというエロさ」である。

一つづつ考えていこう。第一の「エロさ」すなわち「経験知としてのエロさ」である。これは例えば、女性の谷間であったり、ミニスカートであったり、グラビアアイドルの水着であったりといった、世間の考える「エロい」ものである。ここに我々は新しい発見を見ない。これは単にエロいのであって、「驚き」すなわちタウマゼインとして我々に降りてくるものでは無い。このようなエロさは消費材であり、慣れが来る。そして、経験知という性質上我々がひとつのアダルトビデオ、ひとつの同人誌、ひとつの美少女ゲームを二度目以降見た時には必ずこのエロさに落ち着いてしまっている。これこそがアダルトコンテンツにおいて消費が繰り返される原因であると共に我々がクリフハンガー的によりエロいものを求めてしまう原因になる。

第二、第三の「エロさ」は、我々はタウマゼインとしてのエロさを見出しうる。第二の「エロさ」すなわち「あってはならない、というエロさ」であるが、これは言葉を変えれば「背徳感」とも言えるだろうか。やってはいけないことや、あってはならないことをやる、という焦りや焦燥感が性的興奮に繋がる、というものであり、また下品さなどもこの「エロさ」なら属するが、これは何も人道的に徳に反することだけではないのだが、これは第三の「異常であるというエロさ」の際にも考えていきたい。

さて、第三は「異常である、というエロさ」である。背徳感に似るが全く違うものである。およそ日常生活において、エロいものというのは基本的には忌避される。すなわち、日常生活においてはエロいものそれ自体が異常なのである。しかしこの異常さは、必ずしも振り切れれば振り切れるほどエロくなるものでは無い。例えば、電車に乗っている時突然目の前に全裸の女性が乗ってきたら悲鳴をあげて逃げる人もいよう。しかし、とんでもなく短いスカートならば単にエロいで終わる。我々はすべからく、エロさを「異常」として認識する。それを意識の有無に関係なく我々が受容しているとき、我々はエロさを認識できるのだ。そして、正常と異常の境目において我々は最もエロさを感じる。人によってはチラリズムと呼び、人によっては着エロと呼ぶが、これらは最たる例である。私はこの境目を「正と性の境目」と呼んでいる。

さて、「エロさ」の本質の話はこの辺りで置き、再びアダルトビデオの話に戻そう。「正と性の境目」という「エロさ」はアダルトビデオにおいて根幹をなすものである。あまり普段からアダルトビデオ鑑賞を行わない人はよく勘違いをするが、アダルトビデオのエロさの根幹は単なる性行為の「経験知としてのエロさ」に留まるものなどでは断じてない。ひとつは単に通常性行為において存在しないほど下品である、ということがあげられる。女優さんが必要以上に喘ぎ声を上げたり、腰を振ったりすることであるが、これは直感的に理解しうるエロさであり、直接的で思考に左右されない。目の前にボールが来たから目を閉じた、という程度の反射的興奮でしかない。「経験知としてのエロさ」は超克するが、根幹にするには細すぎてしまう。問題はもうひとつの方である。

先程述べたように、日常において「エロい」とは異常である。そして大部分のアダルトビデオは日常から脱却し性行為に及んでいく。すなわち、アダルトビデオは常に正常から異常に脱却していく文化作品なのである。このことの証左として、よく巷で流布している「AVは最初のインタビュー、もしくは前戯が一番エロい」という言説がある。往々にしてこの言説は大してAVを見た事のない中学生から半ばハッタリとして発せられるが、馬鹿にならない意見である。インタビューや前戯は先に述べた「正と性の境目」として明確なところであり、最も分かりやすい点だからである。話は逸れるが、このような言説が信憑性に今ひとつ欠ける最も大きい理由は、インタビューや前戯はエロいシーンとして話題にあげる割に、脱衣シーンを一切あげないからである。

そして、このような異常に向かうアダルトビデオにおいて、性行為中、すなわち「異常」のさなかに日常、正常、正が生まれる瞬間がある。前述した「不完全さ」が出てきた瞬間である。例えば性行為の最中一瞬だけ女優さんがカメラの向こうの誰かを見たとしよう。このような視点、何かを確認する視点は目として、また思考としては正常である。この状態、すなわち性において正が意識される瞬間こそ最も「エロさ」があるのであり、この「エロさ」は他のアダルトコンテンツには散見されない。なぜなら他のコンテンツは不完全さを排除しようとし、アダルトビデオは不完全さを内包するからである。このようにして生まれた「正と性の境目」は、ひとつとして同じ発露はない。そこには女優さんの、また状況や時と場合の違いが常に存在している。これによって一つひとつの境目は一つひとつ別の括りとしてとらえられ、別々の射程を持って我々に向かってくることで我々は真の意味で「驚き」を感ずるのである。性を売り物にする職種の人が、人であるが故に我々と同じ正を持たざるを得ない、という点にこそ、アダルトビデオ特有の「エロさ」がある、と言えるのではないだろうか。

 

 

  • 第三章 アダルトビデオにおける人文学的価値

さて、一章二章とアダルトビデオの「エンターテイメント性」「エロさ」について考察していったが、最後の章として、アダルトビデオにおける人文的価値について考察し論じていきたい。先に断わっておくべきことであるが、AVに直接的な意味として人文的価値を見出そうとするのは非常にナンセンスである。あくまでAVはAVであり、「教材」として以上の意義など存在しない。しかし、目の向け方、アダルトビデオというもののとらえ方によって人文的価値と言わざるを得ない何かにぶつかってしまうのである。すなわち、アダルトビデオにおける人文的価値がそもそも偶発的なものである、ということを我々は忘れるべきではない。

前置きはこのくらいにしよう。アダルトビデオの人文的価値についてである。先程から何度も述べているように、アダルトビデオと他のコンテンツとの明確な違いは「人による不完全さ」である。これは「教材」として用いられる時は単純な弊害でしかない。所謂プレモダン-アダルトビデオ史における「プレモダン」とは、まだアダルトビデオ以外のアダルトコンテンツが発展しておらず、そのアダルトビデオも黎明期から最盛期になっていった時代、すなわちVHSの時代である-においてはそれでも「教材」として価値があったが、ポストモダンの時代においてはより「完全な」コンテンツは多くある。特に二次元作品の台頭という抗いようのない波は、アダルトビデオの「教材」としての価値を著しく低くしてしまった。しかし、このような「教材」としての価値の低下は新しい発露を見出すきっかけとなったのだ。すなわち、「不完全さの発見」である。例えば女性のプロポーションひとつをとっても、美少女ゲームや成人向け漫画においては事実上いくらでも書き直しがきく。「完全」を目指すことが出来る。しかしアダルトビデオは違う。「不完全さ」は「不完全さ」のまま押し通さねばならない。これはポストモダンになって、すなわち「教材」的価値としての対抗者が現れるようになってから初めて考えられたアダルトビデオの本性のひとつである。

そして、この本性はあるものの本性に大きく重なる。それは何か。紛うことなき人間の本性である。我々人間は、我々人間それ自体として完全に成ることはない。しかし、完全を目指すべきであるし、完全を目指す志向にこそ価値がある。それこそ人文的な意味での価値であり、完全かどうかではなく、完全を志向できるかどうかに価値があるのだ。

その点において、すなわち「不完全さを超克しようとする不完全」という存在者として、アダルトビデオよりもあてはまるアダルトコンテンツは存在しない。なぜなら、「完全を目指すこと」こそが「教材としての価値を高めること」に直接繋がり、それこそが「企業努力」であると認められる世界だからである。このような不完全、自己を否定しより高みに手をかけようとする不完全という存在そのものが「人」的なのである。

アダルトビデオは人である。これは、アダルトビデオの持つ本性が人の本性と重なる、とう意味であり、かつまたアダルトビデオにおける人の重要性、という意味でもある。そもそも、他のアダルトコンテンツと違い人が性行為を行う、というその作品形態からして端的に人間中心的であろう。「人」を中心とし、「人」に価値を置いて何かを語るという形態こそが、アダルトビデオが否応なく含蓄的に人文的価値孕んでいると言わざるを得ないのではないか。

また一方で、アダルトビデオの「エロさ」、すなわち「正と性の境目」ということにも人文的な価値を見出さずにはいられない点がいくつか存在している。アダルトコンテンツにおいてだけではないと思うが、「性的なもの」は必ずしも卑俗なものではない。なぜなら、性に関するものは他との混ざりが悪いからである。つまり、どのようなものであっても性的になると途端に性の匂いを帯びる。そしてまた、性は純度を際限なく高めていくと、我々の生きる世界を越え出て、より高次の世界へと飛び去っていく。これに関しては理解しうるものではないだろうか。完璧なプロポーションは興奮しない、というものである。二次元の美少女の胸の大きさ問題のようなものとも重なるが、人は歪でなければ興奮できない。真に性的なものは「教材」的価値を失うのである。

そしてまた一方で、我々の生きる日常世界は卑俗にまみれている。「性的なもの」に比べて混ざりが良すぎるのだ。すなわち、この世はカオス的であって、秩序的にはできていない。つまるところ我々の世界が感性界である、ということであるのだが、そのことから、「正と性の境目」という言葉そのものが、転倒していくことが分かる。すなわち、日常世界において、正常なものは日常生活そのものであり、性的なものは異常である。この構造によってこそ、アダルトビデオは「正常から異常への飛躍」が生まれる。しかし、ここにおいて性がその純粋性によって知性界へと飛翔し、正がそのカオスによって感性界へと堕落していくことによって、正ではなく性こそが志向されて行くべきものにってしまう。これによってアダルトビデオという構造そのものの持つ「エロさ」、つまり「正常なものが異常なものへと向かっていく」という「あってはならない、というエロさ」もまた揺らいでいく。

この視点によって、我々はアダルトビデオを真の意味で「教材」的価値以上の価値があるものとしてとらえることが出来る。すなわち、我々は「教材」という卑俗なものについて語りながら、その実感性界においてある日常世界から、知性界における性にまで手をかけようとしてもがいているのである。そしてその至らなさ、不完全さもまたアダルトビデオのアダルトビデオ性であり、その境目を擦るような立ち位置、「正と性の境目」もまたアダルトビデオ性なのである。

 

 

  • 結びに変えて

さて、ここまでアダルトビデオについて三つの視点から語ってきた。これら三点は、いずれも「ポストモダン」なのか、という疑問や批判、非難の声が聞こえてくるようであるが、断じてポストモダンにおけるアダルトビデオなのである。なぜなら、「教材」の世界においてプレモダンのアダルトビデオは頂点に君臨していたのであり、「エロさ」や「教材」としての価値など考えるまでもなく、「エロかった」からである。

すべからくアダルトコンテンツは「エロさ」を追い求めるものであるが、それぞれのコンテンツの特性や持つ意味、価値を真に光らせるのは斜陽となってからである。そして、アダルトビデオにおいては、ビデオという画質の上で成り立っていた作品であり、DVDの画質には耐えることが出来ない。その点において、AVは「死につつある」コンテンツなのである。極一部の専門の訓練を受けた者を除き、我々は不完全なエロさを使って欲望を発散させきることは難しいのだ。時代が、すなわち我々自身がアダルトビデオの時代の終わりを告げているのであり、そしてまたちょうど日が沈む瞬間にこそ最も美しく輝くように、アダルトビデオは価値を高めきっているのである。このような時代に形を変えながら価値を持つアダルトビデオこそ、「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」と言わずしてなんと表現できるだろうか。

全年齢派駁論

初めに

 私の研究対象は性コンテンツ、特に成年向け美少女ゲームである。2018年現在成年向け美少女ゲームは窮地に立たされている。というのも、物語における性交渉描写の存在の懐疑派がはびこっているからだ。彼らは皆、口をそろえ主張する。性交渉の描写はプレイヤーの性欲解消のためのみにあるので、物語の質を下げるものだ、と。私はその主張に「否」の一言を以て応じよう。

 

 

1君と僕が出会うということ

 物語の構造は常に単純だ。それは、きみとぼくが出会い結ばれるというものだ。本章では全年齢派と私の討議のための共通の地平であるこの構造を探ることとする。

 ヒロインはあらゆる意味で転校生である。それは物語シナリオにおいてでもあるし、日常へ突如襲来する非日常性という異邦性という意味においてでもある。そして、物語は常にヒロインとの出会いによって始まる。つまり、物語は転校生との出会いによってのみ始まる。主人公は転校生に惹かれざるを得ないのだ。主人公は転校生に出会うことにより自己に覚醒するのだ。それは、日常という無意識のうちに非日常が紛れ込むことで、意識を向けざるを得なくなるということだ。これにより意識の主体が生じる。出会いと物語と恋の始まりはどこまでも受動的なのだ。

 では、なぜ無意識のうちから「意識する」という行為が生じるのか。それは、転校生が日常に対する非日常という差異性を帯びているからだ。では、差異とは何か。どこか違うということである。では、どこか違うとは何か。ある点では同じだが、ある点では異なるということである。そう、同じなのだ。転校生は主人公と同じであり、主人公と異なるからこそ、主人公の日常において非日常として意識せざるを得ない対象として浮かび上がるのだ。

 この構造は転校生との恋愛を描く創作物に限らず、あらゆるヒロインとの物語、あらゆるサブカルチャー、ひいては現実にまで言及する耐久性があると確信する。一例をあげてみよう。例えば、よく転校生と対置される存在に幼馴染や妹がいる。その今まで見知った存在がふと見せる「女」としての側面にドギマギするという様式美からもわかる通り、彼女らもまた転校生なのだ。

 閑話休題。この構造において主人公と転校生の恋の成就こそが全年齢派と私の共通の目標である。

 

 

2全年齢派の主張とその限界性

 恋と物語と二人の世界は、転校生の未知性を意識せざるを得ないということから始まるということは前章で示した。この惹かれるということこそへの第一エンディングへの第一歩であるわけだが、惹かれるだけでは恋の成就へとは至れない。なぜなら、主人公はヒロインの未知性に惹かれているのみであり、ヒロインその人に惹かれているわけでは決してない。そして、その惹かれるという行動自体が受動的なものであるからだ。真に結ばれるには、その人を能動的に愛さねばならない。真のその人に会う必要がある。これが最大の課題なのである。物語において、真のその人に出会えた、という結論は語られる。しかし、どの様に会ったのかと問うなら、イベントをこなして二人の絆が高まってなどというあいまいな答えしか出せず、真にその人と会い結ばれるという結論に真実の重みを持たせることができない。このブラックボックスの解明こそが全年齢派と私の共通した問題意識である。本章では、全年齢派のブラックボックス解釈モデルである「捨象モデル」について述べよう。

 この捨象モデルについて極めて簡単に述べるなら、転校生はもはや転校生ではないと断じるモデルである。

 冒頭に述べた通り、ヒロインとは転校生であり未知と既知の両方を併せ持つ存在である。しかし、この二つの記号は矛盾している。それがなぜ、一個人に同居しているのか。いや、この矛盾は未知と既知だけではない、彼女を構成する無限の記号は矛盾に満ちている。ツンとデレ、家族としての一面と恋人としての一面、翼と少女、非日常と日常、肉体と精神。これらは全てが少女を構成する記号でありながらも矛盾している。この矛盾は主人公が転校生と接する内にだんだんと主人公の視点に現れてくる。では、この矛盾に際した主人公はどうするのか、これに対し捨象モデルは矛盾の解消のために双対する記号に優劣または真偽の判定という策を提示する。一つ例を提示しよう。ツンとデレの二つの要素を合わせ持つヒロインがいたとする。このモデルではツンの背後に潜むデレこそ少女の本質だとする態度をとるのが捨象モデルなのだ。このモデルは、「真のその人に会う」を目標に無限の記号の集積たる少女に、その核ともいうべき本質を求める。強気な仮面の下には弱気な素顔があった。世界のために戦うヒーローは実はごく普通の少女だった。このような、気づきを通すことで、真のその人に出会うことができる。と、全年齢派は主張する。

 このような主張のもとに全年齢派は物語において性描写は必要ないとする。精神と肉体、理性と肉欲。これらは矛盾だ。どうして一人の少女に同居できよう。だからこそ、この二つの記号がともに少女の一記号であると認めたなら、少女その人は分裂し、物語の質は低下してしまうと彼らは唱える。

なるほど、彼らの主張は確かに論理的には正しいように思われる。しかし、残念ながらブラックボックス解釈に捨象モデルを採用する限り二人は結ばれえない。なぜなら、矛盾する記号を捨象することにおいて少女は実在の少女から認識内の少女へと変貌するからだ。なぜならば記号とはどこまでも、主人公の視点ではそう見えた、という認識の問題でしかない。その認識における矛盾に際し記号の優劣を決めたなら、実在をどう見るか、という問題ではなく、この視点はどう見るか、という問題へとすり替わってしまう。

 故に捨象モデルにおいて、無限の記号の集積たる少女の分節化は、絶対に決して僕ではない君そのものにたどりつくことはできない。

 

 

3抽象モデル

 全年齢派が用いるモデルが誤謬に満ちていることはご理解いただけたと思う。この解釈では、どうしても「君と僕が結ばれる」というエンディングへとたどり着けない。本章ではプロローグをエンディングへとつなぐ「抽象モデル」による私の解釈を打ち立てよう。

 そもそも捨象モデルの誤りはどこにあったのか。それはどこまで行っても「君」としか語れない存在であるヒロインを、「僕」の独断で規定したことだろう。これにより相対する「君」は消え去り、「僕」しか残らない。

 全年齢派は矛盾の先にその人そのものがあるとした。しかし、よく考えてほしい。この矛盾こそが、人間を空想のキャラクターではなく実在の人格たらしめるものではないか。どこまでも、自己の視点で解釈しようとも理論立てて解釈しきれないという部分に人格の重みがあるのではないのか。

 私が提唱する解釈は捨象モデルに対置させて「抽象モデル」と名付けておこう。この抽象モデルが実在の少女に出会うためにとる方策は、ヒロインが擁する、相反する二つの記号を共に認めることだ。一例をあげるなら、ツンに対しデレこそが本質だとした捨象モデルに対し、抽象モデルはツンもデレの矛盾的総合を認めそれこそが少女だとするのだ。またそれは少女がヒロイン以外でもあると認めることでもある。ヒロイン以外の側面(例えば、少女の家族にとっての側面、少女の友人にとっての側面)を認めるこということだ。そしてそれらの側面も実在であると認めつつも、僕にとっては僕の見え方こそがヒロインであると肯定することだ。この「認め、肯定する」という行為により主人公にとっての少女は単なる記号的存在を脱することができる。ヒロインに「人格」とでもいうべきものが生じる。この人格は、主人公による記号の切り離しによって生じた一面的なものではない。本来結び合わさるはずのない記号が有機的に結び合わさってできた立体的な人格である。この地点にきて初めて、ヒロインは認識された存在から脱却する。もはや、どのようにヒロインがあるのか、本当にヒロインはあるのか、といった認識などはもはや問題にならない。なぜなら、主人公はヒロインを認めたからだ。認識外のヒロインもヒロインの一つの在り方として認め、そのうえで自分の見え方こそがヒロインだと断じることによって、ヒロインは実在のヒロインとしての姿を現す。

 

 

4全年齢派駁論

 さて以上において、抽象モデルを採ることでヒロインの実在の人格に出会うことができた。ここに、未知性への志向という受動的出会いから、能動的にヒロインその人に出会うことができた。しかしまだ全年齢派を駁するという最大の目標が残っている。さて、少女を構成する記号の例として、ツンとデレ社会的役割とか精神的な記号ばかりを挙げてきた。しかし、実在の少女は精神のみではない。肉体でもあるのだ。ここ最大の矛盾である、精神と肉体がある。この矛盾に対し、実在の少女に出会うためには抽象モデルに従いこの矛盾を肯定せねばならない。僕の全人格をかけ、君は精神でもあり肉体でもあり、精神でもなく肉体でもないという矛盾を肯定せねばならない。そのためにはどうしても性交渉を描くことは必要だ。つまり、抽象モデルを採る限り、物語に性描写を欠くことはできない。もし欠いたなら、少女は空想上のキャラクターにしかなりえない。少年は少女を実在の少女とするために、性交渉において受肉させなければならない。

 性描写において少女は実在の少女になり実在の人格が姿を現す。ここにおいて、僕と君の人格的交わりが真に成立する。しかし僕と君が性描写において合一するというのは大問題である。というのも、僕と君はどこまでも矛盾した存在であるからだ。なぜ、君と僕が結ばれることが許されえるのか。前章で矛盾の総体である少女が少女としての個を保つ統一力こそが、存在の真実味であると述べた。ではこの段階で君と僕の間に働く統一力とは何か。それれ、転校生との遭遇で問題となった未知への受動的志向ではない。どこまでも矛盾でありながらも統一へと進むエネルギーこそ、私や全年齢派が夢にまで見た愛としか呼べない能動的志向であろう。では、矛盾した記号の統一により浮かび出る人格に対応するものは何であろう。それは、二人のセカイの人格ともいうものだ。その僕と君という絶対矛盾を統一するべき人格というものを何と呼べよう。その超越的存在は世界精神とか神としか呼べないであろう。

 

おわりに

 以上が全年齢派駁論である。ここまでお付き合いいただいた読者諸賢のうちにお気づきの方もいるかもれしないが、これは拙著「絶頂論考」(性美学研究会公式ブログ参照)と表裏一体をなすものである。一言で表すなら、理論と実践のような関係である。互いが互いを補完する役割を務めていると私は信じる。読了を心から感謝します

固定化された世界における他愛という自己愛

アウグスティヌスの神への信仰は他のキリスト教的文脈同様に愛という表現をもってテキストに表れる。しかし、それは真の愛なのだろうか。彼の愛における対象である神は、完全善であり、原罪の為に自由意志を正しく用いることができない人間を恩寵によって正しく用いることを可能にする存在である。つまり、自己にとって利益となる存在である。アウグスティヌスは作中でしばしば神がどれほど価値ある存在であるかを力説するが、そのような存在へと向かう信仰=愛は自己に利益をもたらすという価値に基づいていて非常に利己的様相を帯びているように思える。 真の愛においては、対象の価値は全く捨象されていなければならない。対象の価値に依存する愛はギリシア的なエロスであり、結局のところは自己愛であり、真の愛、つまりキリスト教アガペーではない。真の愛とは、欲求的存在である自己を否定し、対象に最大の自由を認め、見返りを求めず純粋に対象へと向かう人格的行為でなければならない。対象からの愛(自己にとっての利益)を得ようとして愛するのではなく、ただ己自身の絶対的な愛を実現するのである。つまり、この上なく寂しいものである。しかしその自己を否定した愛という受苦的態度こそが、対他的執着を捨てて自己の実存を貫徹するという意味で、様々な不条理に揺らぐ不安定な自己という存在を逆説的に確立するのである。

 

以上は研究員の一人(以下、研究員s)がとある講義のレポートとして書いた小論文であるが、この論文には性美学研究会が目下研究中の作品『さよならを教えて』において語られる愛と全く同じ構造が見出せる。

さよならを教えて』は2001年に発売された18禁ゲームである。発売当初こそ評価されなかったものの、教育実習生である主人公・人見広介は実は精神病患者でヒロイン達は主人公の妄想によって作り上げられた虚構という(当時としては斬新な)設定が次第に受け始め、発売から17年経った今でさえ度々話題になる。

幼少期から両親に教師になれと言われ続けた主人公人見広介にとって価値や意味というものは教師になる事以外に存在しない(彼は教師を聖職者と呼ぶ)。しかし、教師になる事に失敗し、無価値・無意味な存在と化してしまった自己に耐えられない人見は、教育実習生としての「価値のある・意味のある」自己を仮構する。そして、自己を「先生」と慕ってくれる他者をも仮構する。

当初、彼は睦月(人見と同じ精神病院の患者)、となえ(人見の担当医)、瀬見奈(人見の姉)といった他者に向き合おうとする。しかし、他者に向かうという事は同時に自己に向き合うということである。他者ほど自己という存在を明確に照らし、白日の下に晒すものはない。他者である睦月は彼を人見「先生」ではなく、人見「さん」と呼び、浮遊するシニフィアンとしての自己を露呈させる。そういった他者に恐怖する人見は自分の思い通りにいかない他者が存在する世界から、自分の思い通りに行く虚構としての他者、つまりは自己しか存在しない世界に逃げ込む。そして、その世界に思い通りにいかない他者をも取り込もうとする。それは、天使としての睦月が怪物に喰われる夢のシーンや、となえの分裂シーンに象徴されている。

また一方で研究員sの語る愛においても自己、そして彼の語る自己を愛さない対象すなわち「絶対の対象」さえも虚構に過ぎない。何故ならば、全てが自己を通して形成されたものだからである。対象化されて語られる自己や絶対の他者というものはその生き生きとした現前性を完全に失い固定化されてしまっている。研究員sもまた対象からの愛を得られないという挫折を通して想定された自己や他者で世界を固定化し、自己を正当化しているに過ぎない。そういった点で人見とやっていることは全く変わらない

両者とも自己犠牲的他愛を語るが、彼等の愛は結局のところ想定、固定化された世界で完結しているという点で自己愛に過ぎないのである。

愛なき告白

 

まず始めに好きと愛が存在するものだと仮定し、両者が互いに異なるものだと仮定する。そして我々が熟知するように好きには何らの対象を必要とする。ある特定の人物が好き、その人物のどこか一つの部分が好き、さらに人から離れて、物体や概念も好きの対象になり得る。そして好きの対象選択の任意性、可分解性(つまり我々はいかなるものを好きの対象に出来、さらにその一部のみを対象として捉えることができる点)から、我々はしばしば一部だけを対象だとすることを好きと言い、全体を対象にすることを愛と言う。しかしそれだと愛というのは好きに対しての相対的な概念でしかなく、我々が愛を好きよりも尊ぶ理由など全くない。もちろんそれはそれで真実を言い当たっているのかもしれない。

 

 

 

しかしもっと考えを深めよう。思うに好きと愛の違いはその対象の違いではなく、そもそも対象を必要とするかどうかではないだろうか。つまり対象を必要とするのが好きで、愛には対象を必要としない。しかしこれはかなり我々の直観に反してしまう。我々はいとも当たり前のように「私はあなたを愛している」と言ってしまう、言えてしまう。それはつまりあなたは私の愛の対象ということではないだろうか。だが焦ることはない、続けてみよう。「私はあなたを愛している」に違和感を覚えなくとも、「私はあなたの目を愛している」にはいささか違和感を覚えるのではないだろうか。この分での愛は好きとはほぼ同義だ。強いて言えば大好きで済ませられる。察するに愛するの前後は対等でなければならない。知性体の私はデバイスあるいはオブジェである足とは釣り合わない。しかし私とあなたの場合、私は私であり、あなたに対してのあなたである。あなたは私に対してのあなたであり、あなた自身も私である。つまり一つの文ではあなたと私を使い分けしているが、我々は本質的に私とあなたという二つの要素を併せ持っており、完全な対称をなしている。そこでしか愛が生まれないということだ。つまり「私はあなたを愛している」ではなく、「わたしはあなたというわたしと同質的な存在を通さなければ愛は生まれない」。「わたしー愛-あなた」という状態でしか愛は存在し得ない。しかしそれはあなたがわたしの愛の対象という意味ではなく、我我の間でしか愛は生まれないと言うことだ。そして我我の愛に対する考察はもはや終わったのも同然だ。なぜなら我我はこれ以上愛については何も知らないのである。愛の内容は?愛の理由は?愛の目的は?我我は一つの根本的命題として愛を永く語ってきたが、その在りか以外については何も分からない。いや、もう一つあったのかもしれない。それは愛とは愛するという行為だ。だから我我は「私はあなたを愛している」と言い、「わたしはあなたが愛だ」とは言わないのだ。それ以上のことはもはや何も語り得ない。しかし思考を転換してみよう。語り得ないのではなくて本当にないのでは?愛するという行為には内容も理由も目的も何もない、一つの純粋行為であろう!それの行為自体がその内容も理由も目的も果たしている。つまり愛することは他の行為に分解できず、我我は愛するから愛し、愛するために愛しているのだ。それならば愛は最高善に値する。なるほど、ならばわたしは誰をも愛して善いし、誰をも愛することができるじゃないか!我我はただ愛すればいいんだ!

 

熟考 沈黙 気付き 

 

・・・・・・

 

  気付けばもはや手遅れだった。最高善など口にするべきではなかった。いや、それを口にすることで気が付いた。最高善は我々の志向するもの、我々の究極的目的に値するものだ。つまりそれにちなんで我々が愛を呼ぶとき、それはもはや 愛 を「愛」として固定化し、我々は「愛」することを愛し、「愛」するから愛し、「愛」のために愛してしまう。 愛することは愛を「知る」こととは二律背反で、愛を「知る」ことによって我々は愛の未開で未明なヴェールをはがしてしまい、私に愛は永遠に失われていった。

 

  だから私があなたに告白するとき、「好きです」と言うが決して「愛している」とは言わない。

幼馴染論考-理論編-

 

 

目次

1,記号化された幼馴染みという属性

2,絶対的な他者との出会い

 a,愛の概念分析

 b,再帰的世界における擬似的他者

 c,超越性の超克

3,絶対の他者との出会い~人格概念としての表現と自己~

4,幼馴染みという人格概念

5,実践編への布石と理論的問題

6,謝辞

 

 

 

1,記号化された幼馴染という属性

 幼馴染という属性は、古くより成年向け美少女ゲーム、ひいては二次元的コンテンツにおいて常に取り上げられてきたものの一つである。幼馴染は主人公の持つ関係性としてある種固定化され、ヒロインの重要な属性となっていった。その背景には、多くのコンテンツにおける、主人公と恋愛関係を持つ、もしくは主人公への恋愛感情を持つことへの理由付けとして、幼馴染はあまりにも使い勝手が良いことがあるのは自明であろう。主人公とヒロインとの関係とは、常に歪なものである。主人公は主人公であるということによって、無条件にヒロインとの関係性を持ってしまう。反対に、ヒロインもまた、ヒロインであるということによって、主人公への恋慕を抱かなくてはいけない、いやむしろ、抱くものである、と言った方が適切であろう。こういった関係は、我々にとっては不自然なものとして目に映る。だからこそ、多くのコンテンツでは主人公とヒロインとの関係の進展を描くことによって、出来るだけこのメタ的不協和を解決するように努めるものなのである。さて、このような状況において、幼馴染という属性が如何に有用であるかということが浮き彫りにされるだろう。すなわち、上記の問題点、不協和を、「幼馴染である」というその一語で解決せしめてしまうのである。従って、恋愛を主題としない二次元的コンテンツのヒロインは幼馴染であることが往々にして多く存在する。そしてさらに、恋愛を主題とするコンテンツ、特に成年向け美少女コンテンツにおいても、幼馴染という属性を持ったヒロインが数多く誕生することとなったのである。

 さて、このような事情から急速な拡散を見た幼馴染属性は、段々と記号化の一途を辿ることとなる。ここでいう記号化とは、今では我々が当たり前に持ってしまっている、「幼馴染という属性」という言葉が問題なく使えてしまうこの事そのものを指すのである。すなわち、「幼馴染」とは本来、あるヒロインに特殊的に付与されていた、あるいは特殊に規定された主人公とヒロインの関係性であったはずである。しかし、前述のように、「幼馴染」は平板化した、一つの普遍的記号となってしまったのである。また、「幼馴染」に付随する属性もまた、属性化という名の記号的平板化を免れることは出来なかった。我々が今日、幼馴染ヒロインという言葉から連想するものは、「世話焼き」「ツンデレ」「おっとり」「どじっ子」等で、これらもまた、分かりやすくヒロインのキャラクターを成立させるためにあるかのような普遍的記号の一般例として挙げるに耐える強度を持ったものであることに間違いはないだろう。幼馴染が形骸化するなかで、幼馴染の 中での個性化を図るはずの属性ですら、幼馴染という固定化した概念の内に取り込まれてしまっているのである。だがしかし、ここで一度、本義に戻って考えてみたい。そもそも成年向け美少女ゲーム自体が、記号の集合体と言うべきものであったのでは無いだろうか。ゲームであ るという時点で、それは記号化された要素の集合体としての人格しか持たない。そうであるならば、幼馴染とは、成年向け美少女ゲームにおけるヒロインの究極ともとれるであろう。主人公に対し無条件に恋心を募らせ、主人公もまたそれを無条件に受け入れることが出来る。まさに、コンテンツとして消費されるに至っては、成年向け美少女ゲームヒロインの重要な点を網羅しているとも考えられるであろう。しかし、幼馴染とは、成年向け美少女ゲームのヒロインとは、そして主人公とは、そのように平坦で、死んでいるも同然なものであるとして良いのであろうか。まずは、成年向け美少女ゲームの最も重要なファクターである「愛」に焦点を当てつつ、今日的なヒロイン像と主人公との関係について解き明かす。

 

 

2,絶対的な他者との出会い

a,愛の概念分析

 「愛」の本質とは、「する」という事に他ならない。「愛」が感情であれ、違ったものであれ、そこに「愛する」「愛される」の両者がいることは疑いようが無いだろう。何故なら、愛という語自体が、何かを対象として置くことを前提にしているからである。単独の「愛」が、「愛する」「愛される」から抽出された概念ではないとすると、「愛」とは独立に存在しうるものとなるが、少なくとも「愛」が概念語である限りは、それが実在的に存在していないことは明らかであるから、「愛」という存在は不明瞭どころか全く我々にとって関係の無いものになってしまう。仮に、愛がそれでも我々に関係してくるものであるするのならば、その場合も、愛は何らかの形で我々に関係「して」くるために、やはり「愛」は「する」事において意味を持つ事になってしまう。このため、「愛」の考察の出発点としては、「愛させる」を含めた、「愛する」という形を本質的に見るところから始めるのが妥当だと言える。

 「愛する」という語、ひいては「愛」自体も、何らかの指向性を持っていると考えられる。すなわち、愛の対象となる存在が無くては愛は成立しないのである。いや、想定としては何にも向かわない愛というものを考えることが可能であるが、しかしそのようなものは、やはり愛するという行為の本質である「する」という行為性自体から大きく外れてしまうため、単なる想定の域を越えることは出来ないであろう。従って、「愛する」は何かへと向かうものであるということを、ある程度以上の強度を持った事実として考えることが許されるであろう。そうであるのならば、「愛する」という具体的な内容自体は一先ず横に置いて、愛することの本質的構成要素の一端に行為性があるとして、ここを足掛かりに先へと進めよう。行為性があるということは、働く対象があるという事に他ならない。ここでしばしば我々は、働く主体があるということも行為自体から抽出出来ると考えてしまう。しかし、それは大きな誤りである。ここに於いて認められている条件はただ「する」という行為性であって、する主体ではない。するという語から抽出出来るのは、するという語が元来持っている対象へと働くという、いわば外へと向かうようなそれ自体である。それが外へと向かうことから向かわなかったもう一端としての内側が想定できるようになるだけであって、純粋な行為性には主体性は含まれないはずである。主体性は行為性の中から生じる対象によって、初めて主体として成り立つことが出来るのである。すなわち、主体性は行為性の中から生じてくるものではなく、我々にとって主体を欠いた行為というものをすぐに想定することが難しいが故に作り出される、主体性という名の中身のない変数なのである。さて、ここで話を戻そう。働く対象があるということは、また反対に、「する」という事の本質であると言えるであろう。行為によって対象が定立する一方で、対象が無くては行為自体も成立しない。この両者が深い部分で繋がりあったものであることは自明である。すなわち、「愛する」為には対象が必要で、対象がある為には「愛する」ことが必要なのである。本義である成年向け美少女ゲームに当てはめると、主人公視点をとれば、対象とはヒロインに他ならない。従って、(主人公が)愛するが故にヒロインであるし、ヒロインであるがゆえに(主人公が)愛するのである。だが、ここで今一度立ち止まって考えなくてはならない。主人公は、果たして真にヒロインを愛するのか、そしてヒロインもまた、真に主人公を愛するのであるのか、すなわち、互いが互いを対象としうるのかどうかという問題である。

 

b,再帰的世界における擬似的他者

 我々が行為する対象は、我々にとってどのような存在であるのだろうか。いや、そもそも我々の行為対象など真に存在するのであろうか。我々にとっての対象があると思われる世界は、我々の認識世界である。我々は、我々の認識した世界と、その時に認識してはいなくともそうであると想定した世界観の中に於いて生活している。何故なら、我々にとって確かに真であるとして語ることが出来るのは我々の認識したものが我々の認識したようにあるということだけだからである。それ以外のものは、我々がそのように想定したもの、あるいはそのように意味付けしたものであるという域を越えないのだ。さらに言えば、認識したものが我々の認識したようにあるという言い方もまだ不十分な表現である。正確には、我々がそのように認識したということのみに留めるべきである。我々が認識したからといって、認識の根本的対象となるような、(カントの表現を敢えて借りるとすれば)もの自体が何であるか、それが真にあるのか無いのか、そういったことを語ることは出来ないのである。このように進めると、我々にとっての対象とは我々の内に存在するものであると考えることが出来るであろう。そして、我々自身の日常的な感覚としても、この事は合致して感じられるはずである。我々の生活に於いては、我々の内に固定化した我々自身の世界観の中に身をおくこととなる。電車に乗れば行き先へと辿り着くというように、我々の世界認識がそのまま我々の生活する空間となっているのである。我々が水を飲むとき、それが無味無臭で、「水」というラベルのついた入れ物に入っていれば、それを水ではないものだと疑うことはないであろうし、その時に「水」だと判断したものは、我々にとって未知の存在であるにも関わらず、我々の知る、いや、真に知っているかどうかは分からぬが、少なくとも我々の内に「水」として固定化した概念を眼前のそれに当てはめて考えているのである。また、眼前の「それ」すらも、「我々にとってそのように見られた」ということだけが確かなのであって、それが存在する事の裏付けとはならないのである。従って、このような再帰的世界認識に於いて、我々が対象としうるのは、我々の内にある存在だけなのである。我々は、我々の世界の外にあるようなものを何一つ知ることがない。何故なら、それは知られた時点で我々の世界の内に入ってしまうからである。我々は、自らの世界の内に生活するしかないのだ。つまり「行為する・認識する我々」から始まる世界に於いては、我の内から離れたものなど一つとしてなく、常に全ての認識と行為は我に向かうこととなる。すなわち、ここでは他者はもはや擬似的に他者の形をとるより他にないのである。他者のように思われるそれは、我にとって他者のようであるから他者としているのであって、それは絶対的には他者となり得ないということでもある。従って、「愛する」という行為の向かう先が自己でしかないとすれば、究極的には全ての愛は自己愛に過ぎないということになる。

 このような前提に乗った上で考えてみよう。主人公は果たしてヒロインを愛しているだろうか。否。断じて否である。主人公の愛するものは主人公の愛するヒロインであって、ヒロインを愛するわけではない。愛の具体の内容に関して、この論考では未だ触れてはいないが、しかし、愛という行為の対象としてヒロインが出てこないということは明らかであろう。主人公の愛の向かう先は、ヒロインではなく記号であり、主人公の内にあるヒロインのイメージである。ヒロインはここで真にヒロインから離れ、記号の集合体と化す。そしてまた同様に、いや、むしろそれよりも強く、ヒロインは主人公を愛することが出来なくなる。ヒロインは、記号的に主人公を愛するという事においてヒロインであるのだから、すなわちそれは、主人公自身のことではなく、主人公という記号にのみ向かうこととなる。賢明な成年向け美少女ゲーム愛好家である読者諸賢に置かれても心当たりがあるのではないだろうか。主人公-ヒロインがあまりにも空虚であるようなシナリオ、そんなものが脳裏に浮かばないだろうか。確かに理由や経緯は描かれているけれども、主人公-ヒロインが決して愛し合っているようには感じられないシーンを、互いの理想のみを愛していると感じるような関係性を、我々は飽きるほどに知っているはずである。ヒロインが愛する対象はヒロインが描く理想の主人公像であって、主人公もまた理想のヒロイン像を愛している。彼らは孤独に、互いの内側に篭っているばかりなのである。

 主人公とヒロインは、互いに向かう愛をどうやら持ち得ないようだ、ということはここで了解が取れたことと思う。しかし本論考の主目的は、そのように考えられてしまう両者、すなわち絶対の他者である両者が如何に関わるのか、ということを幼馴染を柱に探求することである。以下より、絶対の他者と向き合うとは如何様なものであるかを述べていく。いま暫く理論が続くが、ご容赦頂きたい。

 

c,超越性の超克

 前項において「行為する・認識する我々から始まる世界観」に関し、我々が我々の内からまったく外へ出られないものであることは確かめられたので、ここではその原因を探ることとしよう。我々の考えた世界はどこまでいっても我々の考えた(考えている)世界である。我々が我々を置く世界が考えられたものでしかないとするならば、「我々」が接することの出来るものも我々の内にしかないことは自明である。従って、我々がこの世界を越えられないその原因はまさにこの点にあると言えよう。つまり、我々が既に、我々自身を超越的な立場から見下ろし、「我々」を中心とする世界を構築しているが故なのである。我々が我々を対象としながら想定する世界において、我々が何者にも出会えないのは至極当然である。我々自身を超越的な視点から再帰的に捉えると、その世界は我々の内にあるとしか言うことが出来ない。いや、構造的には、我々が外にある何かに接しながらも同時に我々の内にある観念をそれに統合しながらものを見ていると言うことも出来るかもしれない。しかし、我々がその観念と事物とを相互浸透的にしているという時点で、我々に現れるものはその観念の染み込んだ、ある種我々の方から変容させたものに他ならず、それは純粋に私のものと言い切ることには違和感があるかもしれないが、少なくともそれ自体とは全く異なったものであるということは言えるであろう。

 問題の生じる根幹には「我々が我々を見る」という働きがあることについて確認が取れたことと思う。では、ここで問うべきなのは、その仕方が果たして妥当性を持つものであるかということであり、すなわち、我が我を見るということ自体を問わなくてはならないのである。我が我を見るということは自覚ということである。この自覚というものは、我々にとってどのようなものであるか。いや、ここでむしろ違和感を覚えるべきであるのは、「自覚とはどのようなものであるのか」と言うことに違和感が無いことである。つまり、自覚、我が我を見るということは、我にとっては見るということで、その見るということは我にとって今まさに見ることであるにも関わらず、我々が自覚自体を問題に出来るということは、我々にとって自覚が客体として対象化可能であるということに他ならない。噛み砕いて記述すれば、我々が自覚を問題にするということは、自覚自体を自覚している、ということの裏返しである、と言えよう。これを認めると、第一の「我が我を見る」という自覚を問うためには、「自覚している我を見る」という第二の自覚を問わなくてはならず、さらには「自覚した我を自覚した我を見る」、第三の自覚、第四の自覚、第五の自覚、そこから無限に「自覚の自覚」というものが生じてきてしまう。ところで、もし仮にこの無限後退を解消できる何かがあったとして、第五、第四の自覚等から遡って、第一の我が我を見るという純粋な自覚そのものに到達できたとしよう。そこにおいて、我に見られた我というものを初めて問題に出来るわけであるが、ここで見られた我とは我と呼べるものなのであろうか。そもそも、なぜ無限後退が可能になるかと考えれば、それは「見る我」がいるからに他ならないということに気付けるだろう。すなわち、我とはどこまでも主体で無くては我にならず、自覚における我とはどこまでも客体であり、真の我とは見る我でなくてはならないのである。しかし、ここで大きな問題がさらに浮上する。「見る我」と言ってしまった時点で、この「見る我」は、[「見る我」として見られた我]として客体化され、主体的な我からは離れてしまうのである。

 さて、このように自覚における問題を急ぎ足で論じて来たわけであるが、これを凡て理解する必要は実はないのである。自覚にまつわる我について論じようとすると、解決困難な問題が数多く生じてきてしまうということだけ分かって頂ければそれでよい。では、さらにここで、なぜ自覚の問題が複雑化を避けられないかという点を問うてみよう。自覚の問題が混迷を極めるところには必ず、主体性と客体性、さらに我という要素が関わっている。だがしかし、主体性と客体性を対置させて考えること自体、見る我と見られる我とを対置することに相違ないのであるから、前述の通り、ここから問題が発生するのは至極真っ当である。さらに、「我」という語自体が扱われる時点で、もはやこの手の問題を避ける術はないのである。とはいえ、それがそのまま自覚を問うことを避ける理由にはなるはずもない。「困難であるから避ける」等の考えは、この思索においては何ら意味を持たず、困難をどう突破するのか、という方向性に進むだけである。しかし、このように自覚の問題をあえて俯瞰したことで、大きな問題が横たわっていることに気付けるだろう。それは、主体的なものとしての我を語る時点で、それが客体となってしまうことである。この問題を突き詰めていくと、「主体的」ということがあまりにも放置され、まことの意味での主体性を問われていないということが出てくる。すなわち、主体性自体を問わねばならないのである。

 だが、ここで思い出してほしい。いまここまでで使われてきた意味での「主体性」は、やはり見られたことによって現れた主体性に過ぎないのではないか。「主体性」とは、再帰的に見られたことで発生するものに過ぎず、従って、主体性という名を持った客体でしかないということになる。しかし、今まで語ってきた主体性がどんなものであるかを振り返ってみれば、それはまさに「見る」等の、行為の主体としての主体性ではなかったか。そして、行為に関しての考察は2-bにて行った通りである。すなわち、もとより「主体性」などは存在しないのである。我々が主体性として今まで呼んできたものは、我々自身を見るという行為によって客体として産み出されたものに過ぎず、純粋な行為に於いて我々の使ってきた意味での主体性は無いのである。しかし、再帰的に行為を反省する時には、行為の主体としての我が必ず生じてくることを否定してはならない。行為する我と純粋な行為性とは全く異なったものであるが、しかし、行為する我とは純粋な行為性を振り返って見た時に産み出されるものなのである。ここで、新たなる「主体性」を見いだす段階に至った。すなわち、真の主体性として考えられるべきものは、純粋な行為性それ自体の創造性なのである。行為の本質は根元的な指向性であるが、その行為がその行為たる由縁の指向性を指向性をたらしめるものとは、純粋な力動であり、そしてそれは究極的な創造性であるのだ。我々が歩くとき、我々が歩こうと考えることにおいて歩く行為が生じるのであるが、我々が歩こうと考えること自体を引き出すのは我自体が歩くという方向性へと向かう力自体であり、それは、客観的な視点からは何らかの理由付けが可能であるかもしれないが、少なくともこの歩くという行為自体に於いては歩くこと自体を生み出す純粋な力、それも創造的な力に他ならない。この創造的主体性については誤解を招きやすいので、もう少し説明を加える。まずこれはそもそも物理還元不可能なものである。我々の行為は物理現象として考えることも出来るが、しかしそれは物理現象という一つの説明方法によって記述されたものに他ならず、行為の仕組みであって行為の原因ではない。さらに、行為の原因として何らかの要因を想定できると思われる。例えば、食べるという行為の原因の空腹などである。しかし、空腹は食事行為へ向かわせる間接的原因であるかもしれないが、直接的根本原因とはなり得ない。何故なら、空腹であることと食事へ向かうことに直接の関係はなく、空腹の解消方法として食事があるというある種の事実があるだけであり、空腹であるから食べるのではなく、根本的に食べる方向性へと我が向かうからこそ食事行為となるためである。しかし、そうすると何故食べる方向性へ向かうのか、と問わなくてはならないが、このような問いを突き詰めていけば、究極的に食べる方向性へ行為を向けてしまうような根元自由意思的動因へとたどり着く。ここでいう自由意思的とは、常にそれが何かからの要請によってそうなるのではなく、無目的的かつ無理由的に動くものであるという意味である。さて、根源的動因であり純粋な行為性でもあるようなこれは、自由意思的であるからして、最も純粋な主体性であるということが出来るだろう。真の主体性とはこの領域において考えられる。従って、これは最も深い位置にある、真の我であるとも言えるであろう。この我は本来的に認識不可能なものであり、その認識は再帰的な方法でしか取れ無いものである。さらに、この真の我は、今においてしかあり得ないものでもある。力とは均質に持続するものではなく、働くということにおいてのみ力であるのだ。つまり、真の我とは今まさにこの瞬間においてしかなく、前も後も真の我ではなく、想定された我なのである。純粋な行為性としての主体であるから、それは一瞬一瞬にまた新しく動き続けることによってしか我ではないのである。すなわち、我とは常に草を踏み分け歩き続けるこの我であり、歩いた道でもなければこれから歩く道でもないのだ。

 さて、真の我が行為することにおいて、それが行為である以上は対象が必ず必要である。この対象とは、未だ顕れない「私(我)」にとっての「あなた(汝)」というあり方でしかなく、決して三人称では語り得ない存在である。いや、むしろこれは存在以前と言っても過言ではない。この「あなた」は、純粋な行為性の、比喩的な意味でのその手のひらの触れる感触そのものであるからだ。存在というだけの輪郭は持ち得ず、ただ行為性における手触り、特殊な意味での「差異」そのものでしか無いのである。特殊な意味での「差異」とは、純粋行為性である主体が、その行為を発揮し得ないところに生じるもののことである。つまり、行為的主体の行為にとって意ならざるもの、この主体にとって絶対に越えられない境界であるそれそのものであり、真の我に対する絶対的な他者なのである。ここにおいて、我々は初めて当初の論旨であった、我に還元されない、目の前にいるあなたそのものへと触れることが可能になるのである。絶対の他者に出会い、そして向かい合うこととは、まさにこの純粋行為的な真の自己において我々が差異に衝突することにおいてなのである。主人公にとってのヒロインが記号である限りはヒロインに手触りなどなく、主人公もまたもはや存在していないも同然である。主人公がその根底たる非記号的な真の自己と不分となったとき、初めてヒロインが主人公の前に立ち居でるのである。

 

 

3,絶対の他者との出会い~人格概念としての表現と自己~

 前項において、ようやく我々は我々のうちに取り込まれ記号化される以前の、真に眼前に立ち居でる生きたヒロインそのものへと至ることができた。しかし、その出会ったヒロインは我々にとっては単なる差異でしかないと言ってよいのだろうか。本項では、我々の純粋な知覚及び行為における他者について論じる。

他者に出会うととは、純粋な行為性に基づいた知覚によって知られる、純粋な行為性の及ばぬもの、絶対的に交わらないものとしての他者に出会うということに他ならない。出会った他者がなんであるかは我々には知り得ず、ただそこにある「他者」という名の壁にぶつかることによって自己と他者の境を知るのみなのである。いや、正確には、他者という壁があって初めてそこにぶつかる以前のものとしての自己が生じるのである。我々は自己があって他者があると考えがちであるが、本当のところは他者があって自己があるのである。では、純粋な行為性の前に浮かび上がってくる差異としての他者とはどのように見えるのだろうか。純粋な行為性における直知は、その基本的有り様からして絶対的に現在においてしかあり得ないものである。即ち、常に新たに直知をすることで、あるいは直知が常に起こっていることで自-他が現れるということである。しかしこの他は、我をその瞬間において限定すると共に、他自体をも限定するものなのである。この限定というのが、これを反省的に見た時に構築される世界観における「それ」の根元的な形であることは構造的に明らかである。反省的世界観において何らかの記述をもって表される他者が、その記述仕方によって記述される根本のところだと言い換えてもよい。従って、純粋行為性から純粋行為的な直知へと至る過程では、他が我に先立つのと同様に、我が知るのではなく、我にとってそのように直知させる、すなわち、我にたいして絶対の他が自らを表現してきているという主客の転倒があるのである。あえて表現という言い方を避けるのであれば、我々の直知する手触りが純粋行為的な我によってその手触りになっているのではなく、直知した絶対の他がそのようであることによってそうなると言ってもよいが、しかし、この絶対の他も固定化して存在するものではないので、この瞬間における純粋行為的な絶対の他との出会いにおいて、絶対の他がそのように表現していると言った方が適切であろう。つまり、絶対の他とは、我々にとってはある意味で人格的な存在であるということである。絶対の他とは、ある人格を持ち我々に常に向き合い自らを表現する如くにたち現れるのである。さて、ここにおいて、ようやく幼馴染みの意義について語る事が出来るのである。

 

 

4,幼馴染みという人格概念

  さて、ここまでの話を簡単に振り返ってみよう。行為とは非再帰的で純粋な対象と共に立ち上がるものであり、そこにおいて創造的な主体性を見ることが出来る。真の我とは絶対の他に向き合うことによって初めて我となる。つまり、我とは絶対の他との内に見られ、逆説的に我の底に触れ得ないものとして絶対の他があるのである。従って、我が我であるのは、そして、その我が平板に記述されるような我ではなく、真に創造的で生き生きとした我であるのは、ひとえに絶対の他が我を根底から支えているからなのである。しかし、支えていると言っても、我を実際的に支えているのではなく、絶対の他と触れあうところにおいて我が我であるという意味において「支えられ」、そして絶対の他を絶対の他がとして、我が「支え」てもいるのである。

 さて、ここでもうひとつ、人格の統一について論じよう。真の我とは現在において絶対の他とふれ合うなかで立ち現れるものであるが、そのように考えると、過去から現在、そして未来へと脈々と続く、この私という同一性も消え去ってしまうこととなる。ところで、現在の私にとって過去の私とはなんであるのか。それは、まさに我とは別のものであり対象ですらある、我にとっての他であり、そして「この私」を限定しているものである。この汝は絶対の他とはまた違ったものであるが、絶対の他が純粋行為性とともに立ち居でるものであるのに対し、過去の自分というような汝は、私から離れ、私自身を限定するようなものである。すなわち、真の我が絶対の他と純粋行為性の内にあるのならば、この汝はその純粋行為的な我、具体的な内容を持たない変数としての我の内容となるような限定をするものなのである。この汝は単に想定されたものだけではなく、この私の肉体、感覚、その他諸々の非限定的我において汝としてあるのである。しかし、このような個人的歴史限定における我が成立するのは、常に絶対の他と触れ合うところからでなくてはならない。どのような自己も、絶対の他を欠いては真に成立しえないのである。さらに、この絶対の他が純粋に未知で満ちた、ここから既知へと成り下がってしまうような存在であっては、この個人的歴史限定における我を支える絶対の他とはならないのである。なぜなら、その触れ合いの中に出で来る絶対の他とは我にとって純粋に未知であるのだから、底における自己限定においてはその内容たる汝、すなわち「この我」とは絶対的に別様なものである「我」を引き出さないのである。言い換えれば、そのときに出会う絶対の他としての人格概念は、我がその他に触れ合うなかで成立してきたということから生じる、絶対の他における限定の射程を含まないのである。

 美少女ゲームにおけるヒロインとして幼馴染みに匹敵する、いや、それ以上に普遍的な「転校生」という概念、「突然の出会い」、こうしたものから始まる二人の関係においては、また"新た"に「私とあなた」をはじめることになる。それと反対に、幼馴染みとの関係というものは、非常に長い射程を持った「私とあなた」という関係であるのだ。すなわち、幼馴染みという人格概念は、我を根底的に支えるものに他ならない。だが、この「幼馴染み」は、従来使われてきた意味での「幼馴染み」と全く別種のものであることは既にご承知のことだろう。我々の内で記号的になり、単なる自己の延長として置かれた存在としての「幼馴染み」ではなく、常に絶対的に他でありながらも我にとって最も近い他であり、その緊張感の中に生じてくるかけがえのない「あなた」を指す表現としての「幼馴染み」こそが、我々が追い求めた真の幼馴染みなのである。さらに、この幼馴染みが  我の内に入らず、そして我が汝の中に入らないという事は、我と汝が常に向き合い「続ける」ということを含んでいる。すなわち、純粋行為的な、我の根元的な方向性として常に向かい合い続けたということでなくてはならない。

ところで、純粋行為的に向かう、とは一体どういうことであるのだろうか。今までにはあまり触れてこなかったところであるが、ここで一度考えてみよう。純粋行為的に向かうということは、自己がなく単に他へ向かうということであるので、絶対的に無目的でなくてはならない。なぜなら、何かの目的とは、我があってこそ生じるものだからだ。私に利益があるということ以上のものを目的に見いだすことは出来ないのだ。私を支えてくれるから、私を肯定してくれるから、等といった理由から誰かを愛したところで、それは自己の利益を追求し、他を手段としているに過ぎない。さらに、向かう対象も-ここまでの理論に則れば当然の帰結であるが-分析的であるものであってはならない。分析とは、再帰的に見られた認識世界においてのみ成立するものであるから、分析可能な時点でそれは対象となり得ない。これは、娯楽というものを例にとってみれば分かりやすいだろう。例えば何か好きなものがあるとして、それが好きな理由を並べることも出来るであろうが、しかし、その並べた理由を満たすような集合体が好きなわけではないだろう。その好きなものが好きなのであって‼️それから得られる何かが好きなわけでも、それの要素が好きなわけでもない。まさに、無目的に非分析的なそれ自体を好きだと言うのである。純粋行為的に向かうとは、これに類するような形であると言えるだろう。さらに純粋行為的な我と不分となるとは、どこまでも究極的な孤独の内にあることに他ならない。私もなく、私以外のものも何やら不明瞭なものばかりである。だがしかし、その究極的な孤独の内にあって初めて真の他者に出会えるのである。これを踏まえてもう一度、幼馴染みと主人公との関係を再考していただきたい。我の認識世界のなかに入れ、固定化した存在としてしまった方が安定するにも関わらず、そうはしない。しかも、純粋行為的に向かうことには一切の理由がない。認識世界以前であるがゆえに絶対的に孤独であるような在りかたでありながらも、あなたを私の意のままになる存在として見ることは決してなく、寂しさを埋めるためでもなく、真のあなたに出会いたいからでもなく、ただひたすらにあなたへと向かうのみなのである。この向かうということも固定化せず、常に新たにあなたに出会い続ける。これを愛と呼ばずして何を呼ぶというのだろうか。この関係とは、私の内に、あなたのうちに入ってしまいそうな不断の緊張感のなかで出会う、そして出会い続けるあなたと私との関係なのである。そしてこの愛とは、純粋行為的に向き合い続けるという事から始まり、常に向かい合い続ける存在、常に新しくありながらも歴史的な"私"を映しているような、最も近い他人への、私を私たらしめる存在への、あまりに圧倒的な感情以前の感情、あえて表現するのならば「感謝」としか語れないが、しかしそもそも語れるようなものではない何かでもあるのである。

 さらに、ここにおいて、非言語的コミュニケーションとしての性行為を語ることが出来る。すなわち、単なる自己の性的欲求を充たすための性行為ではなく、あなたと極限まで接近しながら向き合い一つの行為を共に作り上げていく中で、究極的なところまで他としてのであるあなたに出会う行為としての性行為なのである。この段階に至って、「幼馴染み」とは、この私の、根元も、内容も、身体性も、全てを分析せずに、ただ純粋に「いる」私を肯定し限定する(肯定を目的として肯定するのではなく、限定を目的として限定するのではない)、究極的汝-アルティメート・ヒロイン-となるのである。

 新たに出会うヒロインであっても、このような関係を築くことは決して不可能ではない。しかし多くの作品においてはこのような関係には至らず、良くても純粋行為的な出会いを果たすまでなのである。さらに、幼馴染みとの関係にあって転校生との関係に無いものは、「あえて」という性質である。転校生との関係においては、互いに未知の存在へと、既知へと下すことを暗に目的としながら向かうしか無いのであるが、幼馴染みにおいては、完全な既知へと下ってしまいそうな存在を、常に未知へと置き続け、「私にとって」という形では語り得ない、本当のあなたへと向き合い続けようとすることの上に関係が成り立つのだ。真の幼馴染みとは、真の愛において成り立つと言えるであろう。

 

 

5,実践編への布石と理論的問題

 ここまでの話で、抽象的理論における幼馴染みについては語ってきたが、実践的な視点は未だ空虚なままである。読者諸賢も、何か本題にずっと入らずに、その前置きだけを読んでいる様な気分になったことだろうと思う。それは当然なことで、理論とはやはり後付けにしか過ぎないからだ。この実践的な視点を補完する成年向け美少女ゲームとしては、「LOVESICK PUPPIES-僕らは恋するために生まれてきた-」(企画・シナリオ:安堂こたつ, 2013, COSMIC CUTE)、そしてそのヒロイン「保科有希」と主人公「崇村虎太郎」が挙げられるだろう。この両者の関係とはまさに真の意味での幼馴染みである。しかし、これについては幼馴染み論考実践編にて詳しく研究する。心してお待ちいただきたい。

 また、今回の理論編においても、ある大きな問題を越えることが出来ていないことを記して置こう。それは、真の他者に出会うことの意味そのものである。どんなに他者に出会えたところで、そこに意味があるのか、そもそも何事も意味がないのであれば、全ての論に価値はないのではないだろうか。私は現段階の回答として、我にも汝にも統一されない、根元的な力の関係性に事実には還元できない創造があると考えている。これは「創造する」という事実にはならないものであるが、明言は避けておく。

 

 

6,謝辞

 この長い論考を、しかも理論の羅列ばかりで読みづらく中身のない論考を最後まで読んでいただいた諸兄には、感謝の意を禁じ得ない。出来る限りの論理明証性を保ちつつ読みやすい文章を心がけたが、達成されたとは到底言えない。実践編ではもう少し柔らかく書けるようにしたいと思う。

 最後に、この論考を書き上げるにあたって、数々の議論や文献購読に付き合ってくれた性美学研究会のメンバーに精一杯の感謝と愛を込めて、終わりとさせていただく。

 

絶頂論考③―真理に関する一般的考察―

 美少女ゲームの射精シーンにおける画面の明滅という地点から、本論考ははじまった。ならば、最終論考では、ポルノ映画や官能小説へと風呂敷を広げずに、美少女ゲームの話題に終始するのが道理ではないか?

さて、今回の主題は、性的絶頂時に至る真理の具体的内容である。まずは論旨の礎となる共通理解を築くため、成年向け美少女ゲームの基本的構造とその解釈から述べる。

 美少女ゲームの基本形式とは「対話」である。次元鏡面たるパソコンディスプレイには、背景を背に正面へと立つヒロインが写し出される(いわゆる立ち絵)。そしてまた、主人公の視点は、次元を超えてプレイヤーの視点と一致する。ここに、主人公とヒロインの対話という構図が成立する。なにもこの構図は美少女ゲーム特有のものではないと思われるかもしれない。その考えはある程度はただしく、この構図はあらゆる創作コンテンツにおいて散見される。

 ここで重要なのは以下の二点である。一点は、それらの対話という営みが不自然なまでに強調された形であるということ。美少女ゲームにおいて、この対話は必ず相対するという形で行われる。なぜならば、ディスプレイ中央にヒロインの立ち絵を配し、主人公の立ち絵を敢えて画面から排除し、プレイヤーの側に置くことにより、対話という形式を明示的にする。

もう一点は主人公とヒロインのみで構成される対話であるということ。主人公とヒロインは、相対し、見つめあい、対話する。互いが互いのみを見つめるその空間は、つまり閉じられた空間であり、そこにおいては、主人公とヒロイン以外の第三者が介入する余地などなく、そもそも存在しえない。ここに、ヒロインと主人公の、君と僕のセカイが誕生する。

さて、以上が美少女ゲームの基本構造である。では、これを踏まえた上で美少女ゲームはどのように解釈できるのか?

 美少女ゲームとは端的に述べれば、対話により愛を育むゲームである。主人公がヒロインと対話を積み重ねることで、ヒロインと結ばれることを目指す。しかし、ここに大問題がある。ヒロイン攻略の手段が「対話」であるということだ。はたして、主人公ヒロイン間の対話は健全に成立しているのだろうか、うまく噛み合っているのだろうか?答えは、否である。

 なぜならば、まずそもそも対話において用いる言語が違う。僕の言語体系はあくまで僕のものであり、君のそれとは一致しない。故にどんなに対話が成立しているように見えてもそれはあくまで意味なき言語ゲーム的に成立しているのみに過ぎないのだ。また、相手が自分とおなじく人格を持つという保証はなく、哲学的ゾンビのような存在なのかもしれない。

 この様な状況下において、互いは真に語り合い、厳密に理解しあい、愛し合うことは不可能だ。故に、君と僕だけのセカイではあるが、そのセカイは断絶している。互いが見るのは歴史を背負わぬ表象的他者であり、解釈された虚像に過ぎない。故に、二人は決して結ばれることができない。

 この問題は、なにも美少女ゲームに限った問題ではない。あらゆる創作物、ひいては現実においてまでこの問題はつきまとう。この根本原因は何であろう?それは、対話とは言語という精神原理によってのみなされるものだからである。

肉体は精神の牢獄との言葉にも見てとれるように、古来より、ロゴス、言語、理性といった精神原理は、パトス、非言語、本能といった肉体原理に優越すると考えられてきた。

 この考えは現代日本にも根強く残っている。あらゆる創作物で美しく語られるのは絆、約束、運命といった精神原理だ。

しかし、前述の通りそれらの精神原理のみでは真実の愛に達することは出来ない。合一は非‐合一からしか生じないように、君と僕が決して結ばれぬ他者であるからこそ、結ばれることが出来るのだし、結ばれねばならん。

 ついにここに、絶頂シーンの意義、そしてそこに紐付いて絶頂時に至る真理内容が明らかとなる。

美少女ゲームのゴール地点とも言える性交シーンは肉体原理に支配されている。それは対話というにはあまりに距離が近く、非理性的だ。この性交シーンこそ対話の断絶、次元の断絶、セカイの断絶を克服せしめるものである。性交時、主人公はセカイを真にヒロインと共にする。主人公がヒロインと同じくディスプレイの向こう側に描かれるのだ(イベント絵)。

 そして、肉体によるやりとりが始まる。たしかに、それは対話に比べれば稚拙かもしれない。しかし、肉体によってのみ他者の実在を精神原理から超越して獲得するのである。もはや認識論的な問題など存在しなく、存在論の次元へと移行している。そして肉体的交わりの先にある絶頂つまり真理の光に照らされて真理に達する。そこでは、君と僕の断絶は超克され、言語ゲームも哲学的懐疑もそこには存在しない。君と僕のみのセカイにおいて、君と僕は真理によって合一せしめられたのだから。

 ではその真理とは果たして何か?それは愛の対話の最終解であるのだから、「僕は君が好きだ」と理性的に語りうる精神的のみの真理ではない。また、単に相手を求める衝動や志向性などといった肉体的のみの真理でもない。神の光に照らされる真理であるのだから、それは精神的にも肉体的にも、認識においても存在においても真理であり、君と僕だけのセカイを包み込む真理であるはずだ。故に、以下の様に結論付けられよう。絶頂時に至る真理とは「肯定」である、と。

 この肯定は無条件である。僕が君を肯定する。僕が僕を肯定する。君が君を肯定する。君が僕を肯定する。君と僕の世界を肯定する。これらの肯定は同質であり、無条件の祝福であり、存在の肯定である。

 以上より、美少女ゲームの性交シーンにおける絶頂、ひいては全創作物及び全現実における性的頂について、存在の肯定という真理は示された。(了)

絶頂論考②―電撃に関する一般的考察―

 電流と快楽。両者は一見相容れないものであるかのように思われる。しかし、聡明な当ブログの読者諸君ならお気付きだろうが、特にアダルビデオ、アダルビデオゲームにおいて両者はただならぬ関係性を築いてきた。

 主にSMプレイのハードさを演出する技法として体に刺された幾本もの電極から発する電流により絶頂を迎える女性というものが描かれる。

 しかし、このような事が現実にあり得るのであろうか。体に電流を流すことで性的絶頂を迎えてしまうなどあって良いのだろうか。否、断じて否。それが現実にあり得るのであれば、町中に配備されたAEDは極めて卑猥な装置ということになってしまう。

 故に、およそ人は電流で性的快楽を得られないということは確実である。であるならば、ポルノコンテンツにおいて示されるそれらの描写は何を示すのであろうか。

 ところで、電流すなわち雷は、古来より神性の象徴であった。たとえば、北欧神話ギリシア神話最高神は雷を扱う。そして日本一において雷は神鳴りと書くことからも分かるように、神のなせる技として捉えられてきた。

 では、その神性の象徴たる雷が身体を駆け巡るとは、何を表すのか。そう、神性が体に宿るということを示しているのである。つまり簡潔に述べるなら、巫女やイタコの様に神が身体に降りてきている状態なのである。故に、電流が流れていると身体を自分のものであるように自由には動かせないし、感覚も平常時とはことなる。

 ここに、冒頭の問い、なぜ電流を流されると絶頂してしまうのか、の答えがある。神が身体に宿ることは、絶頂による、つまり真理の光による真理認識へと近づくということなのである。

 神が宿ることにより、真理へ近づく。そして、絶頂という心理の光(Lux Veritatis)を迎えるものの、神が人間の身体に宿ることへの負荷に耐えきれず、最後には文字通り失神を迎えるのだ。

 さて、今回と前回で、真理への道標としての性的絶頂がポルノコンテンツの中で暗に示されていると考察した。しかし絶頂論考はここで終わらない。なぜならば、絶頂共に訪れる「真理」とは何を指すのか、という核心に未だ触れていないからだ。という訳で、次回、絶頂論考③―真理に関する一般的考察―、に乞うご期待!!