性美学研究会

現代の性的コンテンツを哲学的に省察してぼちぼち載せるブログ。

「キラ☆キラ」論考その①~キラ☆キラ感想~

美少女ゲーム「キラ☆キラ」についての論文を公開します

当研究会の会長が執筆した論文を公開いたします。

 

 

 

はじめに
上智大学性美学研究会は、性愛をテーマとした作品を読み解き、議論をかわすのみの研究会ではない。性美学のセイとは単に性愛の性のみの意味ではないのだ。青春の青であり、超越性の聖であり、つまり我々の生そのものだ。それら多義にわたるセイを性愛を用いながらも芸術にまで昇華させた作品を解読することこそ性美学研究会に課せられた使命なのである。 

今回考察の対象となるのは、成人指定のビジュアルノベル、俗にエロゲーと呼ばれるコンテンツに属する作品の『キラ☆キラ』だ。あらすじを以下に引用し、本題に入る。


ミッション系の学校「欧美学園」の「第二文芸部」に所属する主人公たち 4 人は、今年度限りでの廃部が決まってしまった部を最後に目立たせようと、パンクバンド(ガールズバンド)「第二文芸部バンド」(略称:d2b)を結成する。文化祭でのライブは無事に成功し、4 人は満足していた。 ところが、その後に参加したライブイベントがインターネット配信されており、それを見た名古屋のライブハウスから出演依頼が来てしまう。受験などを控え文化祭終了後には解散する予定でいた第二文芸部バンドであったが、 4 人はボロボロのワゴンに乗り込み、各地を巡る長い旅に出発していく……。 (wikipedia より)


1 青春つまり現存在としての生への開け
青春とはなにか。作品内で語られる結論は、他の誰のものでもない、自分だけの生を獲得すること、である。
主人公である鹿之助は、固有の生を喪失して生き続けてきた。義理の父を、その関係性ゆえに思いやり、紗理奈ルートでは「生活の中にありながらうまく死んだようになれないかと考えた。」と語り、元彼女には「優しいのだが心がない。」と評される。
そんな彼がパンクロックで学ぶのはアナーキーとノーフューチャーの精神である。アナーキーとは他人の目を気にせず行動するという精神で、ノーフューチャーとは後先を考えず行動する精神である。つまり、諸関係の内にある自分、過ぎ行く時間の内にある自分という客観的な視点を捨て、主観としての自分のみになるということだ。それはつまり、ほかの何にも規定されない自分だけの生、現存在としての自分を獲得したことを意味する。共通ルートにおいて己の生を奪還したことで鹿之助は、ほかの誰でもなく自分でしかない自分として、個別ルートで各ヒロインの問題へと介入することが可能となるのだ。


2自己の肯定つまり世界の肯定
現存在である人間にとっては、生とは物語的に語られるものではなく、瞬間 のスパークである。このことは、生命エネルギーの増大と、世界の肯定へとつながる。
きらり死亡ルートのラストで鹿之助はこう語る。「どうか、聴いてください。命をかけて演奏します。この、くそったれな世界に、精一杯の愛をこめて。」と。確かに世界はくそったれだ。きらり生存ルートできらりが、「世の中ってむつかしいね」と言うように、世界を構成する因果関係、人間関係は複雑に絡み合い、善良な人間が善良な人間を傷つけたりと、不条理に溢れてる。そんな世界から解き放たれ、現存在として目覚めた鹿之助はある種の客観性を獲得する。自分を規定する関係から切り離されることで、逆説的に世界という関係の総体たる関係と対峙することになるのだ。
くそったれな世界に対し、関係から解放された人間が出来ることはなんだろう。くそったれな世界をうつくしい世界に自分で作り変えることは残念ながらできない。何故ならば、対
峙したクソッタレな世界は、どれほど生で充満した人間にとっても巨大すぎる。では、現存在は、くそったれな世界に対し無力なのか。
ところで、現存在は生命エネルギーに満ち満ちているはずである。というのも、時間や空間の中で関係性に規定され、ある種生かされているとも表現できる状態から脱却し一瞬のスパークとして生きる鹿之助には、臭い立つほどの生に満ちているし、それはつまり自己の肯定だ。
ここに先ほどの現存在は世界に対し何が出来るのか、という問いに対する答えがある。自分の中にある生命エネルギーつまり自己肯定が世界へと流出するのだ。「僕の中にこんなに輝くものがあったとは思えません。この感情を少しでも誰かに伝えたくてたまりません。(中略)どうか、聴いてください。命をかけて演奏します。この、くそったれな世界に、精
一杯の愛をこめて。」と。命をかけた精一杯の愛が、くそったれな世界へと降り注ぐのだ。
つまり、自己の肯定が世界の肯定ひいては世界への精一杯の愛へと昇華されるのだ。


3 アウグスティヌス的認識つまり自己と世界の間接的肯定
この章の本題に入る前に、きらりという少女ときらり生存ルートについて多少語らなければならない。椎名きらりとは前島鹿之助と同じ第二文芸部バンドに所属しボーカルをつとめる少女である。彼女は才能という意味においてもマイノリティーに属する人間だ。それゆえ、普通を、仲間を、そして人並みの幸福を求める。また、彼女の家庭は貧しく、根は
善良ではあるがアルコール中毒者である父親を抱えている。鹿之助は父親が自殺未遂で倒れているところに遭遇し、父親さえいなければきらりは幸せになれるのでは、という思いから見殺しにしてしまう。これがきらり生存ルートの導入である。
ルート終盤で、きらりにプロデビューの話が舞い込むが、彼女はそれを一度断る。「そういう降って沸いたみたいなチャンス、私はほしくないんだ。それにね、私は昔から、出来ればいつか社会の歯車って言うか……うまく言えないけど、周りと上手く馴染んだやさしい人になりたかったの。私、穏やかなのが好き。歌は大好きだけど……」。この言葉からも分
かるとおり彼女はむつかしい世の中において、ありきたりであっても本人にとってきらきらしたものを大切にして生きる少女である。しかし、そんな少女は、恋人の父親を見殺しにしてしまったという自白を聞き、次のように語る。「世の中って、むつかしいね。あたし、やっぱりデビューするよ。鹿クン、世の中には、悲しくて寂しいことがいっぱいあるね。私ね、なんだか、歌わなきゃいけないことがあるような気がして来たんだ。もしかしたら、それは私の義務なのかもしれない。私の周りの人は、みんななんだかかわいそう。もう嫌だよ。本当はみんな凄くいい人なのに。だけど、おかげで、難しいことが一杯わかったんだ。悲し
いことがいっぱいあったけど、わかったことは、すごくいいことなんだ。私、この気持ちを何とか形にしたいの。ねえ鹿クン、わかる?私だけがわかっちゃたのかな?だとしたら寂しいな。鹿クンにもわかって欲しいの。元気を出して欲しいの。あたしね、もし歌手になれたら、みんなが元気になれるような歌が歌いたいな。鹿クンが疲れたときはね、鹿クンのためだけにも歌ってあげるよ。」
ここで、きらりは鹿之助がきらり死亡ルートで至った段階と、世界への愛という点で近しい段階へ移行する。ちなみに、彼女の台詞に義務という言葉があるがこれは、世界との関係の中で生じる義務ではないだろう。どちらかというと gift である才能に対する義務と捉えたほうが適切だ。こうして彼女はキラキラに憧れる少女から、キラキラそのものとなり世界
を照らす存在となる。
本題に入ろう。きらりという少女の本質と鹿之助のきらりを通した肯定についてだ。きらり生存ルートときらり死亡ルートの途中まで、鹿之助の自己と世界の肯定は完全なものではなかった。なぜなら、「結局、きらりの目を通さなければ、僕には何も美しく見えない。」
というきらり死亡ルートでの鹿之助の台詞からもわかるとおり、彼の隣にはキラキラしたヒロインがいたからだ。彼が愛する少女を通した自分と世界だから、美しくみえるし、肯定もできる。だから、この時点では、鹿之助は何にも規定されない存在ではなく、きらりに規定される存在と表現したほうが適切だ。そしてこの時点では、世界に対する肯定と愛を与えれられても、精一杯の愛はなしえない。美しい世界には精一杯の愛をこめることなど出来はしないのだ。世界がむつかしくくそったれだから、そして、そこに一個の生を充満させる現存在として対峙するからこそ、命を精一杯の愛をこめることが出来るのだ。そして、それは
前章で語ったように、きらりという自己を規定し肯定するきらりが死亡するルートでなされるのだ。


4きらりと鹿之助つまり永遠の愛と瞬間の愛
前章では、きらりは、むつかしい世界をきらきらで照らす存在になることで、現存在としての鹿之助に近しい状態になったと述べた。しかしそう、近しいだけであって、その態度は異なるものなのだ。4 章ではそのことについて述べる。
鹿之助ときらり。鹿之助はきらり死亡ルートで、きらりはきらり生存ルートで世界の肯定と世界への愛を手に入れる。しかし、その肯定と愛は質の異なるように思われる。
鹿之助の場合、その世界への愛は、現存在という今、この場所で一回的に生きる自己の肯定というものに由来する。その自己の肯定が形を変え、世界への愛となる。だから、彼の世界への愛の根底にあるのは、今とこの場所の肯定であり。世界への肯定と愛も今このように現にある世界への肯定と愛なのである。
対してきらりはであろう。彼女の場合、世界の肯定は自己の肯定に由来するものではないように思われる。彼女は父親を見殺しにした鹿之助を赦し、肯定した。私が思うにこれと彼女の世界の肯定は相似関係にあるのではないだろうか。つまり、きらりの世界の肯定と世界への愛は、赦しの色が強いのだ。むつかしい世界において、凄くいい人たちが背負うしかなかった悲しい、原罪とも呼ぶべき罪への赦しである。だからこそ、きらりは過去も現在も未来も世界の全てを赦し肯定する。
よって、鹿之助ときらりの態度の違いは、端的に言い表せば、ヒューマニズム的愛かキリスト教における神的な愛か、ということになる。


おわりに
以上で本論は終わりである。拙いながらも精一杯の愛をこめた文章に最後までお付き合いいただけだことを何よりもうれしく思う。この作品では、きらりと鹿之助という二通りの人間、二通りの生き方が描かれた。どちらも崇高な生き方であるが、私個人としては鹿之助が、息苦しさの中で生きる現代人にとって模範となる存在であると思割れる。がんじがらめ
の関係性の中で死んだように生きる現代人にこそ、一回的に生命エネルギーをたぎらせ瞬間的に生きることが大切ではないだろうか。その生き方の根底にはアナーキーとノーフューチャーつまりパンクロックの精神がある。作中で述べられる手軽にパンクロッカーになれる方法を引用して結びとする。「 乱暴な言葉を会話や文章に最低ひとつは織り交ぜること
が非常に有効です。四六時中汚い言葉ばかりを使っていれば、もし本当は怒ってなくても、なんだか世界の全てが嫌いになってくるから不思議なものです。こうして全ての会話の中に悪意的な言葉をちりばめれば、あ なたはどんどん自由になり、自然と新のパンクロッカーに近づいてゆくでしょう。 」
そんなわけで、クソッタレな読者諸君よ、本論を手に取り呼んで頂き心からファッキンありがとう。