性美学研究会

現代の性的コンテンツを哲学的に省察してぼちぼち載せるブログ。

「キラ☆キラ」論考その②~キラ☆キラ感想~

美少女ゲーム「キラ☆キラ」についての論文を公開します。

こちらは研究員によるものです。




はじめに
本論は性美学研究会が発行する文書であり、しかるべき機会に発表されるであろう論文の未完成稿である。本来語られるべき各ルートへの考察が抜け落ちているばかりか、本稿中の考察に関しても改善の余地を多く含む。だが、本論で扱うテクストにおいて最も特筆すべき事項についての概論としては一定の強度を保つものである。諸氏におかれては、本論を切欠として日本の性美学、特にポルノグラフィティに見られる哲学について興味と関心を持たれる事を願ってやまない。

序論
2008年にoverdriveより発売された成人向け美少女ゲーム「キラ☆キラ」(以下キラキラと称する)は、発売から多くの時間が経った今でも高い評価を受け続けている稀有なタイトルの一つである。その要因としては、もちろん成人向け美少女ゲームとしてのヒロインの魅力や完成度の高い楽曲が大きく貢献している事はさることながら、シナリオテクストの内に貫かれたシナリオライター瀬戸口氏の哲学が挙げられるだろう。本論では、テクストに通底する人文主義思想について言及した後、キラキラのメインヒロイン椎野きらりルート(きらりルートはキラキラ内で唯一2ルートへ分岐するが、便宜上それを作中の選択可能順できらり1、きらり2と称する)のきらり2シナリオテクスト中に見られた神的存在を通じて自己を受け入れる神学的人文主義と、きらり1に描かれる剥き出しの自己と世界との関係性、すなわち世界内存在であり現存在である自己への気付きと肯定、或いはサルトル実存主義について論じる。
本論に入る前に、キラキラについて簡単な説明を加えておく。キラキラは大きく分けて二つの部分から成る。一つは、主人公とヒロイン達が学園においてバンド活動を行い評判となり、受験前、すなわち社会へ出る前の最後の冒険として、夏休みを使っておんぼろワゴンで全国へ飛び込みライブツアーを敢行する、いわば青春の終わりの輝きを描いたロードストーリーだ。このロードムービーじみたシナリオの途中から個別ルート、すなわち青春を終わらせたあと如何にして生きるか、というテーマで各ヒロイン毎の答えとストーリーが展開される。各ヒロイン毎の答えと言っても、彼女らとの交流を通じて主人公が自分なりの答えを見つける事が主題となっている。
さて、この答えというところに瀬戸口氏の哲学が現れてくるわけであるが、そこについての解説の前にはやはり、主人公のメンタリティについても同様に解説をせねばなるまい。主人公の前島鹿之助は複雑な家庭環境の元で育ったが為に、強い自我というものを持てないでいる。感情、あるいは情動は、状況への応答として自らの内に沸き上がり、支配し、原動力ともなるものであるが、彼はこの情動をつねに押さえて生きている。このように書くとルサンチマンのようなものが想起されるかもしれないが、むしろ彼においては情動自体を自ら切り離すような仕方でそれを克服している。つまり、彼にとっては自らの周囲、さらには自分自身でさえも立体感を持たないもの、我々がちょうど映画を見るような形で世界と自分を捉えているのだ。


本論
では、いよいよ瀬戸口氏の哲学について考察をしよう。このシナリオテクスト中で1部より重要な位置を占め続けているのは「ロックンロール」である。ここで語られる「ロックンロール」とは単に音楽の一ジャンルではない。テクストにおいて、ロックンロールは『アナーキー』と『ノーフューチャー』の二点が強調されている。この二点に共通するキーワードは「断絶」である。アナーキーの精神は周囲への気遣いやしがらみを全て断絶し、ノーフューチャーの精神はその字の通り未来―ここでは青春の話であるから、将来と言い換える方が適切であろうが―と現在とを断絶する思想なのだ。すなわち、ロックンロールの精神によって規定され得る自己の在りようには、「今」「ここだけで」という特徴が付与される。これはそのまま「今ここ性」或いは「一回性」と称される、現存在の在り方自体を表していると言っても過言ではない。これらの精神はシナリオ初期から底流しており、最も哲学的思索を含んだきらり1において大きく関係してくる。本来、現存在としての自己を受け入れることは容易い事では無いはずであるが 、きらりという大きな才能、そして若さゆえの無謀さによって、何者にも寄ること無い単なる自己として旅に出ることが出来るようになったわけである。自己の現実感を欠いた状態、現存在からは対極に位置するような在り方であった主人公は、ここにおいて初めて「今ここ性」を獲得するが、しかしそれは前述の通りきらりという大きな才能とロックンロールの特異性を通じての事であった。
ここまでがルート分岐前の共通部分である。ここから個別部分、第二部について述べる。きらりルートでは、1、2のそれぞれで固有の自己肯定に至るが、それはハイデガー等のドイツ系思想やサルトル等の実存的人文主義キリスト教的救済に基づくアウグスティヌス(或いはキケロに端緒を見ても良いが)的人文主義思想になぞらえる事が出来よう。まずは後者、きらり2より考察する。
きらりルートは中途まで共通で、圧倒的な輝きを持つきらりというヒロインの愛が主人公へと向けられ、それを主人公が受容するまでが描かれる。それに平行し、きらり自身の境遇についても語られる訳であるが、このきらりは歌手のスカウトが来るほどの歌声であり、頭脳に関しても不世出の天才であると同時に、失業してなお過去の栄光とプライドにすがり付く父親によって極貧生活を強いられるばかりか、自らの体を売ってでも家族を守ろうとする、不遇な人生を歩む少女でもあった。彼女において特筆すべき事項はその「許し」の姿勢である。自分の人生にとって邪魔でしか無いはずの父親に対してさえ悪い人ではないのだと言い放ち、自己犠牲の精神でもって身売りを受け入れる。だが、そうした彼女の態度を理解できな主人公は、彼女の為を思って父親の自殺を見殺しにしてしまう。これによってきらりの生活は好転するわけだが、それを素直に受け入れる事が出来ない。人が死んでしまうことで上手く行くという、ある意味で人の価値が失われるような、もしくはそうした世界の不条理に対して違和感を覚えるのだ。だが、父親の死に主人公の独善的な優しさが関わっている事を知ると、彼女の意見は一転する。彼女は、この世界に生きる人々がみな苦しんでいることを悟り、そして彼らの救いとなることを決断する。すなわち、この世界の全てを受け入れ、自身の夢であった普通の生活とはかけ離れても、人生を歌手として歩み、苦しむ全ての生を自らの輝きで照らす事を決めるのだが、それは意思ではなく、義務だと考える。また、彼女は父親を見殺しにしたことに深い後悔を抱く主人公に対しても、その罪を引き受けようとする。さて、こうしたきらりの無償の愛、そして世界中の生に対する慈しみと自己犠牲の精神は、まさしくキリストの原罪思想と大きく関わってくる。きらり1での主人公の台詞に「きらりの目を通じてしか、世界は輝かない」との言葉があるが、これはきらりという存在に照らされて見える世界のみが輝くという姿勢を如実に表している。アウグスティヌスの神理解および人間へのまなざしは、これとほぼ寸分の狂いもなく一致する。アウグスティヌスは人間はみな神の光(Lux Veritatis)を等しく受け、それによって真理の姿を見ることが出来るようになると主張する。また、人間そのものに関しても、キリストが原罪を背負い、そして主のあまねく愛(agape)によって我々は我々自身の存在根拠と自己肯定を得られると考える。これをそのままきらり2に当てはめるのであれば、きらりはキリストそのものであると解釈できる。すなわち、自身に現実感を抱けなかった主人公は自己自身の肯定へと至るが、それは単なる肯定ではなく、父親を見殺しにした罪をきらりが受け入れ、そして主人公に無償の愛を注ぎ、全てを救済せしめんとする事を通じての事である。つまり、主人公はきらりという超越的存在への信仰を根拠に自己を立体感のある人間として規定しうるのである。なお、このルートのその後を描いた「キラ☆キラ カーテンコール」では、主人公はごく一般的な生を生き、自己の存在へと疑いを抱くこともなく、穏やかな生を送っている。信仰によって享受せしむる生の在りようとはこのようなものなのであろう。
さて、きらり1では父親を見殺しにする前段階で、きらり自身が火事によって焼死してしまう。これにより、主人公は前述のような神的存在を失うこととなる。彼の喪失感はすさまじく、きらりの神格についての考察を補強する。彼は惰性でロックンロールを続け、またもや生きているか死んでいるか分からないような在り方へと回帰する。自身が何者にも寄ることの無いような漂泊の期間を過ごした後、彼はついにきらりの死を受け入れるに至る。そして、そこで初めて朝日を受けて輝く世界というものに気付くのだ。彼はその後のライブで生のエネルギーとも言うべき「黄金色の感情」というものに言及しつつこう語る。「僕の中にこんなに輝くものがあったとは思えません。この感情を少しでも誰かに伝えたくてたまりません。(中略)どうか、聴いてください。命をかけて演奏します。この、くそったれな世界に、精一杯の愛をこめて。」まさに彼は、彼自身として生に向き合い、剥き出しの現存在として世界に対して対峙するのである。ロックンロールという「今ここ性」を以てして、ただ何にも寄ることもなく、しかし漂泊ではなく、自ら大地を踏みしめて立つように、自己それそのものとして自らで自らを満たすほどの「精一杯の愛」を「くそったれな世界」(=ただそれとしてあり、悲しみも嘆きの内包するような場の開け)へと注ぐのである。すなわち、彼は世界を肯定し、そうしてそのうちにあって自己投企的に存在する自分自身を認めるのだ。ここにおいて彼はきらりという神を脱却し、実存的在り方として自らを充足させるのだ。



結論
この主人公の精神の変遷はサルトルの戯曲『蠅』と重ね合わせる事が出来るだろう。自分達に辛い境遇を強いておきながらも自己の根拠としてあるような神を棄てられぬが、それゆえに幸福な人間と、ただ自己として不遇も神も殺して自ら幸福を求めていく主人公の対比は、まさにきらり2ときらり1に当てはまる。きらり2ではきらりという罪を受け入れ、そしてどうしようもなく辛い生と世界を慈しむような超越的な存在への信仰とそこから返される愛を通じて自己を肯定し、自己に寄らないからこそ不断の幸福を得るが、きらり1では神的存在を失った後に神を通さずに見える世界の美しさを認め、自己自身が縮こまった在り方から踏み越え、新たな場の開けを獲得すると共にそこへと自らを投げ出して、「それでもなお」という逆接の形で世界と自己を精一杯愛するようになる。我々は、きらり1で示されるような強靭な自己の肯定感というものに否応なく憧れるものだ。この作品が長く愛されるのは、鹿之助の精一杯の愛をいとおしく思うが故ではないだろうか。