性美学研究会

現代の性的コンテンツを哲学的に省察してぼちぼち載せるブログ。

『Dies irae』考察➀

 はじめまして、会長です。会員の力で性美学研究会はここまでこぎつけました。ブログが開設されて間もないですが、私としては、少しづつ美少女ゲームレビュー・考察をしていこうと思います。

 

 そうですね。初回なので、流行に乗ったものから紹介をしていきましょう。さて、本日紹介しますのは『Dies irae』。そう現在絶賛放送中のあのアニメの原作です。そして、私がプレイした初めての美少女ゲームでもあります。

  さて、この『Dies irae』についてレビューをしますが、批評空間のようなただのレビューではなく本研究会らしく哲学的レビューとしましょう。そして、今後のブログのネタが尽きてしまうと困るので今回は『Dies irae』の世界観の考察のみとしましょう。

 

  私のねじまがった解釈によるとこのゲームは、シナリオライターが独自のアレンジを加えた新プラトン主義的な世界観により成り立っています。新プラトン主義において、世界とは、一である神から流出したものであり、流出したものは神へと回帰していくという、神の自己表現の場としてとらえられます。

作中の神であるメリクリウスは、未知の結末を求め、さながらニーチェのような永劫回帰の世界(完全に同一の物語の繰り返しではないので厳密には違う)を流出させます。それに対し主人公の藤井蓮やラインハルトやマリィは、神メリクリウスの似像として描かれながらもそれぞれの方法で神メリクリウスを志向します。このことは新プラトン主義的には、一である神による自己理解の過程(知る自分と知られる自分への分裂)と解釈できるでしょう。

しかし、ここからは新プラトン主義にはない完全に独自の未来予想的な思想が展開されます。知られるという客体であったメリクリウスが知るという主体である主人公らに完全に知り尽くされるのです。こうして一への回帰が達成される訳ですが、知られる自己と知る自己という本来同一のものが二重にあるうえ、知られるという客体が知るという主体により、理解されきることで、知る自己の優位性が示され、知りきった自己であるマリィを中心とした新たな世界が新たな一である彼女から流出しするのです。

ですが、新たな神マリィは知る自己ではありましたが、知られる自己ではありません。この時点において今までは知る自己であった神は、知られる自己へと変容し、新たな知る自己生み出すのです。この神の代替わりとも表現できる自己理解が繰り返されてくるのです。

つまり、『Dies irae』における世界とは一である神の果てしなく続く自己理解の過程なのです。