性美学研究会

現代の性的コンテンツを哲学的に省察してぼちぼち載せるブログ。

絶頂論考②―電撃に関する一般的考察―

 電流と快楽。両者は一見相容れないものであるかのように思われる。しかし、聡明な当ブログの読者諸君ならお気付きだろうが、特にアダルビデオ、アダルビデオゲームにおいて両者はただならぬ関係性を築いてきた。

 主にSMプレイのハードさを演出する技法として体に刺された幾本もの電極から発する電流により絶頂を迎える女性というものが描かれる。

 しかし、このような事が現実にあり得るのであろうか。体に電流を流すことで性的絶頂を迎えてしまうなどあって良いのだろうか。否、断じて否。それが現実にあり得るのであれば、町中に配備されたAEDは極めて卑猥な装置ということになってしまう。

 故に、およそ人は電流で性的快楽を得られないということは確実である。であるならば、ポルノコンテンツにおいて示されるそれらの描写は何を示すのであろうか。

 ところで、電流すなわち雷は、古来より神性の象徴であった。たとえば、北欧神話ギリシア神話最高神は雷を扱う。そして日本一において雷は神鳴りと書くことからも分かるように、神のなせる技として捉えられてきた。

 では、その神性の象徴たる雷が身体を駆け巡るとは、何を表すのか。そう、神性が体に宿るということを示しているのである。つまり簡潔に述べるなら、巫女やイタコの様に神が身体に降りてきている状態なのである。故に、電流が流れていると身体を自分のものであるように自由には動かせないし、感覚も平常時とはことなる。

 ここに、冒頭の問い、なぜ電流を流されると絶頂してしまうのか、の答えがある。神が身体に宿ることは、絶頂による、つまり真理の光による真理認識へと近づくということなのである。

 神が宿ることにより、真理へ近づく。そして、絶頂という心理の光(Lux Veritatis)を迎えるものの、神が人間の身体に宿ることへの負荷に耐えきれず、最後には文字通り失神を迎えるのだ。

 さて、今回と前回で、真理への道標としての性的絶頂がポルノコンテンツの中で暗に示されていると考察した。しかし絶頂論考はここで終わらない。なぜならば、絶頂共に訪れる「真理」とは何を指すのか、という核心に未だ触れていないからだ。という訳で、次回、絶頂論考③―真理に関する一般的考察―、に乞うご期待!!