性美学研究会

現代の性的コンテンツを哲学的に省察してぼちぼち載せるブログ。

絶頂論考③―真理に関する一般的考察―

 美少女ゲームの射精シーンにおける画面の明滅という地点から、本論考ははじまった。ならば、最終論考では、ポルノ映画や官能小説へと風呂敷を広げずに、美少女ゲームの話題に終始するのが道理ではないか?

さて、今回の主題は、性的絶頂時に至る真理の具体的内容である。まずは論旨の礎となる共通理解を築くため、成年向け美少女ゲームの基本的構造とその解釈から述べる。

 美少女ゲームの基本形式とは「対話」である。次元鏡面たるパソコンディスプレイには、背景を背に正面へと立つヒロインが写し出される(いわゆる立ち絵)。そしてまた、主人公の視点は、次元を超えてプレイヤーの視点と一致する。ここに、主人公とヒロインの対話という構図が成立する。なにもこの構図は美少女ゲーム特有のものではないと思われるかもしれない。その考えはある程度はただしく、この構図はあらゆる創作コンテンツにおいて散見される。

 ここで重要なのは以下の二点である。一点は、それらの対話という営みが不自然なまでに強調された形であるということ。美少女ゲームにおいて、この対話は必ず相対するという形で行われる。なぜならば、ディスプレイ中央にヒロインの立ち絵を配し、主人公の立ち絵を敢えて画面から排除し、プレイヤーの側に置くことにより、対話という形式を明示的にする。

もう一点は主人公とヒロインのみで構成される対話であるということ。主人公とヒロインは、相対し、見つめあい、対話する。互いが互いのみを見つめるその空間は、つまり閉じられた空間であり、そこにおいては、主人公とヒロイン以外の第三者が介入する余地などなく、そもそも存在しえない。ここに、ヒロインと主人公の、君と僕のセカイが誕生する。

さて、以上が美少女ゲームの基本構造である。では、これを踏まえた上で美少女ゲームはどのように解釈できるのか?

 美少女ゲームとは端的に述べれば、対話により愛を育むゲームである。主人公がヒロインと対話を積み重ねることで、ヒロインと結ばれることを目指す。しかし、ここに大問題がある。ヒロイン攻略の手段が「対話」であるということだ。はたして、主人公ヒロイン間の対話は健全に成立しているのだろうか、うまく噛み合っているのだろうか?答えは、否である。

 なぜならば、まずそもそも対話において用いる言語が違う。僕の言語体系はあくまで僕のものであり、君のそれとは一致しない。故にどんなに対話が成立しているように見えてもそれはあくまで意味なき言語ゲーム的に成立しているのみに過ぎないのだ。また、相手が自分とおなじく人格を持つという保証はなく、哲学的ゾンビのような存在なのかもしれない。

 この様な状況下において、互いは真に語り合い、厳密に理解しあい、愛し合うことは不可能だ。故に、君と僕だけのセカイではあるが、そのセカイは断絶している。互いが見るのは歴史を背負わぬ表象的他者であり、解釈された虚像に過ぎない。故に、二人は決して結ばれることができない。

 この問題は、なにも美少女ゲームに限った問題ではない。あらゆる創作物、ひいては現実においてまでこの問題はつきまとう。この根本原因は何であろう?それは、対話とは言語という精神原理によってのみなされるものだからである。

肉体は精神の牢獄との言葉にも見てとれるように、古来より、ロゴス、言語、理性といった精神原理は、パトス、非言語、本能といった肉体原理に優越すると考えられてきた。

 この考えは現代日本にも根強く残っている。あらゆる創作物で美しく語られるのは絆、約束、運命といった精神原理だ。

しかし、前述の通りそれらの精神原理のみでは真実の愛に達することは出来ない。合一は非‐合一からしか生じないように、君と僕が決して結ばれぬ他者であるからこそ、結ばれることが出来るのだし、結ばれねばならん。

 ついにここに、絶頂シーンの意義、そしてそこに紐付いて絶頂時に至る真理内容が明らかとなる。

美少女ゲームのゴール地点とも言える性交シーンは肉体原理に支配されている。それは対話というにはあまりに距離が近く、非理性的だ。この性交シーンこそ対話の断絶、次元の断絶、セカイの断絶を克服せしめるものである。性交時、主人公はセカイを真にヒロインと共にする。主人公がヒロインと同じくディスプレイの向こう側に描かれるのだ(イベント絵)。

 そして、肉体によるやりとりが始まる。たしかに、それは対話に比べれば稚拙かもしれない。しかし、肉体によってのみ他者の実在を精神原理から超越して獲得するのである。もはや認識論的な問題など存在しなく、存在論の次元へと移行している。そして肉体的交わりの先にある絶頂つまり真理の光に照らされて真理に達する。そこでは、君と僕の断絶は超克され、言語ゲームも哲学的懐疑もそこには存在しない。君と僕のみのセカイにおいて、君と僕は真理によって合一せしめられたのだから。

 ではその真理とは果たして何か?それは愛の対話の最終解であるのだから、「僕は君が好きだ」と理性的に語りうる精神的のみの真理ではない。また、単に相手を求める衝動や志向性などといった肉体的のみの真理でもない。神の光に照らされる真理であるのだから、それは精神的にも肉体的にも、認識においても存在においても真理であり、君と僕だけのセカイを包み込む真理であるはずだ。故に、以下の様に結論付けられよう。絶頂時に至る真理とは「肯定」である、と。

 この肯定は無条件である。僕が君を肯定する。僕が僕を肯定する。君が君を肯定する。君が僕を肯定する。君と僕の世界を肯定する。これらの肯定は同質であり、無条件の祝福であり、存在の肯定である。

 以上より、美少女ゲームの性交シーンにおける絶頂、ひいては全創作物及び全現実における性的頂について、存在の肯定という真理は示された。(了)