性美学研究会

現代の性的コンテンツを哲学的に省察してぼちぼち載せるブログ。

幼馴染論考-理論編-

 

 

目次

1,記号化された幼馴染みという属性

2,絶対的な他者との出会い

 a,愛の概念分析

 b,再帰的世界における擬似的他者

 c,超越性の超克

3,絶対の他者との出会い~人格概念としての表現と自己~

4,幼馴染みという人格概念

5,実践編への布石と理論的問題

6,謝辞

 

 

 

1,記号化された幼馴染という属性

 幼馴染という属性は、古くより成年向け美少女ゲーム、ひいては二次元的コンテンツにおいて常に取り上げられてきたものの一つである。幼馴染は主人公の持つ関係性としてある種固定化され、ヒロインの重要な属性となっていった。その背景には、多くのコンテンツにおける、主人公と恋愛関係を持つ、もしくは主人公への恋愛感情を持つことへの理由付けとして、幼馴染はあまりにも使い勝手が良いことがあるのは自明であろう。主人公とヒロインとの関係とは、常に歪なものである。主人公は主人公であるということによって、無条件にヒロインとの関係性を持ってしまう。反対に、ヒロインもまた、ヒロインであるということによって、主人公への恋慕を抱かなくてはいけない、いやむしろ、抱くものである、と言った方が適切であろう。こういった関係は、我々にとっては不自然なものとして目に映る。だからこそ、多くのコンテンツでは主人公とヒロインとの関係の進展を描くことによって、出来るだけこのメタ的不協和を解決するように努めるものなのである。さて、このような状況において、幼馴染という属性が如何に有用であるかということが浮き彫りにされるだろう。すなわち、上記の問題点、不協和を、「幼馴染である」というその一語で解決せしめてしまうのである。従って、恋愛を主題としない二次元的コンテンツのヒロインは幼馴染であることが往々にして多く存在する。そしてさらに、恋愛を主題とするコンテンツ、特に成年向け美少女コンテンツにおいても、幼馴染という属性を持ったヒロインが数多く誕生することとなったのである。

 さて、このような事情から急速な拡散を見た幼馴染属性は、段々と記号化の一途を辿ることとなる。ここでいう記号化とは、今では我々が当たり前に持ってしまっている、「幼馴染という属性」という言葉が問題なく使えてしまうこの事そのものを指すのである。すなわち、「幼馴染」とは本来、あるヒロインに特殊的に付与されていた、あるいは特殊に規定された主人公とヒロインの関係性であったはずである。しかし、前述のように、「幼馴染」は平板化した、一つの普遍的記号となってしまったのである。また、「幼馴染」に付随する属性もまた、属性化という名の記号的平板化を免れることは出来なかった。我々が今日、幼馴染ヒロインという言葉から連想するものは、「世話焼き」「ツンデレ」「おっとり」「どじっ子」等で、これらもまた、分かりやすくヒロインのキャラクターを成立させるためにあるかのような普遍的記号の一般例として挙げるに耐える強度を持ったものであることに間違いはないだろう。幼馴染が形骸化するなかで、幼馴染の 中での個性化を図るはずの属性ですら、幼馴染という固定化した概念の内に取り込まれてしまっているのである。だがしかし、ここで一度、本義に戻って考えてみたい。そもそも成年向け美少女ゲーム自体が、記号の集合体と言うべきものであったのでは無いだろうか。ゲームであ るという時点で、それは記号化された要素の集合体としての人格しか持たない。そうであるならば、幼馴染とは、成年向け美少女ゲームにおけるヒロインの究極ともとれるであろう。主人公に対し無条件に恋心を募らせ、主人公もまたそれを無条件に受け入れることが出来る。まさに、コンテンツとして消費されるに至っては、成年向け美少女ゲームヒロインの重要な点を網羅しているとも考えられるであろう。しかし、幼馴染とは、成年向け美少女ゲームのヒロインとは、そして主人公とは、そのように平坦で、死んでいるも同然なものであるとして良いのであろうか。まずは、成年向け美少女ゲームの最も重要なファクターである「愛」に焦点を当てつつ、今日的なヒロイン像と主人公との関係について解き明かす。

 

 

2,絶対的な他者との出会い

a,愛の概念分析

 「愛」の本質とは、「する」という事に他ならない。「愛」が感情であれ、違ったものであれ、そこに「愛する」「愛される」の両者がいることは疑いようが無いだろう。何故なら、愛という語自体が、何かを対象として置くことを前提にしているからである。単独の「愛」が、「愛する」「愛される」から抽出された概念ではないとすると、「愛」とは独立に存在しうるものとなるが、少なくとも「愛」が概念語である限りは、それが実在的に存在していないことは明らかであるから、「愛」という存在は不明瞭どころか全く我々にとって関係の無いものになってしまう。仮に、愛がそれでも我々に関係してくるものであるするのならば、その場合も、愛は何らかの形で我々に関係「して」くるために、やはり「愛」は「する」事において意味を持つ事になってしまう。このため、「愛」の考察の出発点としては、「愛させる」を含めた、「愛する」という形を本質的に見るところから始めるのが妥当だと言える。

 「愛する」という語、ひいては「愛」自体も、何らかの指向性を持っていると考えられる。すなわち、愛の対象となる存在が無くては愛は成立しないのである。いや、想定としては何にも向かわない愛というものを考えることが可能であるが、しかしそのようなものは、やはり愛するという行為の本質である「する」という行為性自体から大きく外れてしまうため、単なる想定の域を越えることは出来ないであろう。従って、「愛する」は何かへと向かうものであるということを、ある程度以上の強度を持った事実として考えることが許されるであろう。そうであるのならば、「愛する」という具体的な内容自体は一先ず横に置いて、愛することの本質的構成要素の一端に行為性があるとして、ここを足掛かりに先へと進めよう。行為性があるということは、働く対象があるという事に他ならない。ここでしばしば我々は、働く主体があるということも行為自体から抽出出来ると考えてしまう。しかし、それは大きな誤りである。ここに於いて認められている条件はただ「する」という行為性であって、する主体ではない。するという語から抽出出来るのは、するという語が元来持っている対象へと働くという、いわば外へと向かうようなそれ自体である。それが外へと向かうことから向かわなかったもう一端としての内側が想定できるようになるだけであって、純粋な行為性には主体性は含まれないはずである。主体性は行為性の中から生じる対象によって、初めて主体として成り立つことが出来るのである。すなわち、主体性は行為性の中から生じてくるものではなく、我々にとって主体を欠いた行為というものをすぐに想定することが難しいが故に作り出される、主体性という名の中身のない変数なのである。さて、ここで話を戻そう。働く対象があるということは、また反対に、「する」という事の本質であると言えるであろう。行為によって対象が定立する一方で、対象が無くては行為自体も成立しない。この両者が深い部分で繋がりあったものであることは自明である。すなわち、「愛する」為には対象が必要で、対象がある為には「愛する」ことが必要なのである。本義である成年向け美少女ゲームに当てはめると、主人公視点をとれば、対象とはヒロインに他ならない。従って、(主人公が)愛するが故にヒロインであるし、ヒロインであるがゆえに(主人公が)愛するのである。だが、ここで今一度立ち止まって考えなくてはならない。主人公は、果たして真にヒロインを愛するのか、そしてヒロインもまた、真に主人公を愛するのであるのか、すなわち、互いが互いを対象としうるのかどうかという問題である。

 

b,再帰的世界における擬似的他者

 我々が行為する対象は、我々にとってどのような存在であるのだろうか。いや、そもそも我々の行為対象など真に存在するのであろうか。我々にとっての対象があると思われる世界は、我々の認識世界である。我々は、我々の認識した世界と、その時に認識してはいなくともそうであると想定した世界観の中に於いて生活している。何故なら、我々にとって確かに真であるとして語ることが出来るのは我々の認識したものが我々の認識したようにあるということだけだからである。それ以外のものは、我々がそのように想定したもの、あるいはそのように意味付けしたものであるという域を越えないのだ。さらに言えば、認識したものが我々の認識したようにあるという言い方もまだ不十分な表現である。正確には、我々がそのように認識したということのみに留めるべきである。我々が認識したからといって、認識の根本的対象となるような、(カントの表現を敢えて借りるとすれば)もの自体が何であるか、それが真にあるのか無いのか、そういったことを語ることは出来ないのである。このように進めると、我々にとっての対象とは我々の内に存在するものであると考えることが出来るであろう。そして、我々自身の日常的な感覚としても、この事は合致して感じられるはずである。我々の生活に於いては、我々の内に固定化した我々自身の世界観の中に身をおくこととなる。電車に乗れば行き先へと辿り着くというように、我々の世界認識がそのまま我々の生活する空間となっているのである。我々が水を飲むとき、それが無味無臭で、「水」というラベルのついた入れ物に入っていれば、それを水ではないものだと疑うことはないであろうし、その時に「水」だと判断したものは、我々にとって未知の存在であるにも関わらず、我々の知る、いや、真に知っているかどうかは分からぬが、少なくとも我々の内に「水」として固定化した概念を眼前のそれに当てはめて考えているのである。また、眼前の「それ」すらも、「我々にとってそのように見られた」ということだけが確かなのであって、それが存在する事の裏付けとはならないのである。従って、このような再帰的世界認識に於いて、我々が対象としうるのは、我々の内にある存在だけなのである。我々は、我々の世界の外にあるようなものを何一つ知ることがない。何故なら、それは知られた時点で我々の世界の内に入ってしまうからである。我々は、自らの世界の内に生活するしかないのだ。つまり「行為する・認識する我々」から始まる世界に於いては、我の内から離れたものなど一つとしてなく、常に全ての認識と行為は我に向かうこととなる。すなわち、ここでは他者はもはや擬似的に他者の形をとるより他にないのである。他者のように思われるそれは、我にとって他者のようであるから他者としているのであって、それは絶対的には他者となり得ないということでもある。従って、「愛する」という行為の向かう先が自己でしかないとすれば、究極的には全ての愛は自己愛に過ぎないということになる。

 このような前提に乗った上で考えてみよう。主人公は果たしてヒロインを愛しているだろうか。否。断じて否である。主人公の愛するものは主人公の愛するヒロインであって、ヒロインを愛するわけではない。愛の具体の内容に関して、この論考では未だ触れてはいないが、しかし、愛という行為の対象としてヒロインが出てこないということは明らかであろう。主人公の愛の向かう先は、ヒロインではなく記号であり、主人公の内にあるヒロインのイメージである。ヒロインはここで真にヒロインから離れ、記号の集合体と化す。そしてまた同様に、いや、むしろそれよりも強く、ヒロインは主人公を愛することが出来なくなる。ヒロインは、記号的に主人公を愛するという事においてヒロインであるのだから、すなわちそれは、主人公自身のことではなく、主人公という記号にのみ向かうこととなる。賢明な成年向け美少女ゲーム愛好家である読者諸賢に置かれても心当たりがあるのではないだろうか。主人公-ヒロインがあまりにも空虚であるようなシナリオ、そんなものが脳裏に浮かばないだろうか。確かに理由や経緯は描かれているけれども、主人公-ヒロインが決して愛し合っているようには感じられないシーンを、互いの理想のみを愛していると感じるような関係性を、我々は飽きるほどに知っているはずである。ヒロインが愛する対象はヒロインが描く理想の主人公像であって、主人公もまた理想のヒロイン像を愛している。彼らは孤独に、互いの内側に篭っているばかりなのである。

 主人公とヒロインは、互いに向かう愛をどうやら持ち得ないようだ、ということはここで了解が取れたことと思う。しかし本論考の主目的は、そのように考えられてしまう両者、すなわち絶対の他者である両者が如何に関わるのか、ということを幼馴染を柱に探求することである。以下より、絶対の他者と向き合うとは如何様なものであるかを述べていく。いま暫く理論が続くが、ご容赦頂きたい。

 

c,超越性の超克

 前項において「行為する・認識する我々から始まる世界観」に関し、我々が我々の内からまったく外へ出られないものであることは確かめられたので、ここではその原因を探ることとしよう。我々の考えた世界はどこまでいっても我々の考えた(考えている)世界である。我々が我々を置く世界が考えられたものでしかないとするならば、「我々」が接することの出来るものも我々の内にしかないことは自明である。従って、我々がこの世界を越えられないその原因はまさにこの点にあると言えよう。つまり、我々が既に、我々自身を超越的な立場から見下ろし、「我々」を中心とする世界を構築しているが故なのである。我々が我々を対象としながら想定する世界において、我々が何者にも出会えないのは至極当然である。我々自身を超越的な視点から再帰的に捉えると、その世界は我々の内にあるとしか言うことが出来ない。いや、構造的には、我々が外にある何かに接しながらも同時に我々の内にある観念をそれに統合しながらものを見ていると言うことも出来るかもしれない。しかし、我々がその観念と事物とを相互浸透的にしているという時点で、我々に現れるものはその観念の染み込んだ、ある種我々の方から変容させたものに他ならず、それは純粋に私のものと言い切ることには違和感があるかもしれないが、少なくともそれ自体とは全く異なったものであるということは言えるであろう。

 問題の生じる根幹には「我々が我々を見る」という働きがあることについて確認が取れたことと思う。では、ここで問うべきなのは、その仕方が果たして妥当性を持つものであるかということであり、すなわち、我が我を見るということ自体を問わなくてはならないのである。我が我を見るということは自覚ということである。この自覚というものは、我々にとってどのようなものであるか。いや、ここでむしろ違和感を覚えるべきであるのは、「自覚とはどのようなものであるのか」と言うことに違和感が無いことである。つまり、自覚、我が我を見るということは、我にとっては見るということで、その見るということは我にとって今まさに見ることであるにも関わらず、我々が自覚自体を問題に出来るということは、我々にとって自覚が客体として対象化可能であるということに他ならない。噛み砕いて記述すれば、我々が自覚を問題にするということは、自覚自体を自覚している、ということの裏返しである、と言えよう。これを認めると、第一の「我が我を見る」という自覚を問うためには、「自覚している我を見る」という第二の自覚を問わなくてはならず、さらには「自覚した我を自覚した我を見る」、第三の自覚、第四の自覚、第五の自覚、そこから無限に「自覚の自覚」というものが生じてきてしまう。ところで、もし仮にこの無限後退を解消できる何かがあったとして、第五、第四の自覚等から遡って、第一の我が我を見るという純粋な自覚そのものに到達できたとしよう。そこにおいて、我に見られた我というものを初めて問題に出来るわけであるが、ここで見られた我とは我と呼べるものなのであろうか。そもそも、なぜ無限後退が可能になるかと考えれば、それは「見る我」がいるからに他ならないということに気付けるだろう。すなわち、我とはどこまでも主体で無くては我にならず、自覚における我とはどこまでも客体であり、真の我とは見る我でなくてはならないのである。しかし、ここで大きな問題がさらに浮上する。「見る我」と言ってしまった時点で、この「見る我」は、[「見る我」として見られた我]として客体化され、主体的な我からは離れてしまうのである。

 さて、このように自覚における問題を急ぎ足で論じて来たわけであるが、これを凡て理解する必要は実はないのである。自覚にまつわる我について論じようとすると、解決困難な問題が数多く生じてきてしまうということだけ分かって頂ければそれでよい。では、さらにここで、なぜ自覚の問題が複雑化を避けられないかという点を問うてみよう。自覚の問題が混迷を極めるところには必ず、主体性と客体性、さらに我という要素が関わっている。だがしかし、主体性と客体性を対置させて考えること自体、見る我と見られる我とを対置することに相違ないのであるから、前述の通り、ここから問題が発生するのは至極真っ当である。さらに、「我」という語自体が扱われる時点で、もはやこの手の問題を避ける術はないのである。とはいえ、それがそのまま自覚を問うことを避ける理由にはなるはずもない。「困難であるから避ける」等の考えは、この思索においては何ら意味を持たず、困難をどう突破するのか、という方向性に進むだけである。しかし、このように自覚の問題をあえて俯瞰したことで、大きな問題が横たわっていることに気付けるだろう。それは、主体的なものとしての我を語る時点で、それが客体となってしまうことである。この問題を突き詰めていくと、「主体的」ということがあまりにも放置され、まことの意味での主体性を問われていないということが出てくる。すなわち、主体性自体を問わねばならないのである。

 だが、ここで思い出してほしい。いまここまでで使われてきた意味での「主体性」は、やはり見られたことによって現れた主体性に過ぎないのではないか。「主体性」とは、再帰的に見られたことで発生するものに過ぎず、従って、主体性という名を持った客体でしかないということになる。しかし、今まで語ってきた主体性がどんなものであるかを振り返ってみれば、それはまさに「見る」等の、行為の主体としての主体性ではなかったか。そして、行為に関しての考察は2-bにて行った通りである。すなわち、もとより「主体性」などは存在しないのである。我々が主体性として今まで呼んできたものは、我々自身を見るという行為によって客体として産み出されたものに過ぎず、純粋な行為に於いて我々の使ってきた意味での主体性は無いのである。しかし、再帰的に行為を反省する時には、行為の主体としての我が必ず生じてくることを否定してはならない。行為する我と純粋な行為性とは全く異なったものであるが、しかし、行為する我とは純粋な行為性を振り返って見た時に産み出されるものなのである。ここで、新たなる「主体性」を見いだす段階に至った。すなわち、真の主体性として考えられるべきものは、純粋な行為性それ自体の創造性なのである。行為の本質は根元的な指向性であるが、その行為がその行為たる由縁の指向性を指向性をたらしめるものとは、純粋な力動であり、そしてそれは究極的な創造性であるのだ。我々が歩くとき、我々が歩こうと考えることにおいて歩く行為が生じるのであるが、我々が歩こうと考えること自体を引き出すのは我自体が歩くという方向性へと向かう力自体であり、それは、客観的な視点からは何らかの理由付けが可能であるかもしれないが、少なくともこの歩くという行為自体に於いては歩くこと自体を生み出す純粋な力、それも創造的な力に他ならない。この創造的主体性については誤解を招きやすいので、もう少し説明を加える。まずこれはそもそも物理還元不可能なものである。我々の行為は物理現象として考えることも出来るが、しかしそれは物理現象という一つの説明方法によって記述されたものに他ならず、行為の仕組みであって行為の原因ではない。さらに、行為の原因として何らかの要因を想定できると思われる。例えば、食べるという行為の原因の空腹などである。しかし、空腹は食事行為へ向かわせる間接的原因であるかもしれないが、直接的根本原因とはなり得ない。何故なら、空腹であることと食事へ向かうことに直接の関係はなく、空腹の解消方法として食事があるというある種の事実があるだけであり、空腹であるから食べるのではなく、根本的に食べる方向性へと我が向かうからこそ食事行為となるためである。しかし、そうすると何故食べる方向性へ向かうのか、と問わなくてはならないが、このような問いを突き詰めていけば、究極的に食べる方向性へ行為を向けてしまうような根元自由意思的動因へとたどり着く。ここでいう自由意思的とは、常にそれが何かからの要請によってそうなるのではなく、無目的的かつ無理由的に動くものであるという意味である。さて、根源的動因であり純粋な行為性でもあるようなこれは、自由意思的であるからして、最も純粋な主体性であるということが出来るだろう。真の主体性とはこの領域において考えられる。従って、これは最も深い位置にある、真の我であるとも言えるであろう。この我は本来的に認識不可能なものであり、その認識は再帰的な方法でしか取れ無いものである。さらに、この真の我は、今においてしかあり得ないものでもある。力とは均質に持続するものではなく、働くということにおいてのみ力であるのだ。つまり、真の我とは今まさにこの瞬間においてしかなく、前も後も真の我ではなく、想定された我なのである。純粋な行為性としての主体であるから、それは一瞬一瞬にまた新しく動き続けることによってしか我ではないのである。すなわち、我とは常に草を踏み分け歩き続けるこの我であり、歩いた道でもなければこれから歩く道でもないのだ。

 さて、真の我が行為することにおいて、それが行為である以上は対象が必ず必要である。この対象とは、未だ顕れない「私(我)」にとっての「あなた(汝)」というあり方でしかなく、決して三人称では語り得ない存在である。いや、むしろこれは存在以前と言っても過言ではない。この「あなた」は、純粋な行為性の、比喩的な意味でのその手のひらの触れる感触そのものであるからだ。存在というだけの輪郭は持ち得ず、ただ行為性における手触り、特殊な意味での「差異」そのものでしか無いのである。特殊な意味での「差異」とは、純粋行為性である主体が、その行為を発揮し得ないところに生じるもののことである。つまり、行為的主体の行為にとって意ならざるもの、この主体にとって絶対に越えられない境界であるそれそのものであり、真の我に対する絶対的な他者なのである。ここにおいて、我々は初めて当初の論旨であった、我に還元されない、目の前にいるあなたそのものへと触れることが可能になるのである。絶対の他者に出会い、そして向かい合うこととは、まさにこの純粋行為的な真の自己において我々が差異に衝突することにおいてなのである。主人公にとってのヒロインが記号である限りはヒロインに手触りなどなく、主人公もまたもはや存在していないも同然である。主人公がその根底たる非記号的な真の自己と不分となったとき、初めてヒロインが主人公の前に立ち居でるのである。

 

 

3,絶対の他者との出会い~人格概念としての表現と自己~

 前項において、ようやく我々は我々のうちに取り込まれ記号化される以前の、真に眼前に立ち居でる生きたヒロインそのものへと至ることができた。しかし、その出会ったヒロインは我々にとっては単なる差異でしかないと言ってよいのだろうか。本項では、我々の純粋な知覚及び行為における他者について論じる。

他者に出会うととは、純粋な行為性に基づいた知覚によって知られる、純粋な行為性の及ばぬもの、絶対的に交わらないものとしての他者に出会うということに他ならない。出会った他者がなんであるかは我々には知り得ず、ただそこにある「他者」という名の壁にぶつかることによって自己と他者の境を知るのみなのである。いや、正確には、他者という壁があって初めてそこにぶつかる以前のものとしての自己が生じるのである。我々は自己があって他者があると考えがちであるが、本当のところは他者があって自己があるのである。では、純粋な行為性の前に浮かび上がってくる差異としての他者とはどのように見えるのだろうか。純粋な行為性における直知は、その基本的有り様からして絶対的に現在においてしかあり得ないものである。即ち、常に新たに直知をすることで、あるいは直知が常に起こっていることで自-他が現れるということである。しかしこの他は、我をその瞬間において限定すると共に、他自体をも限定するものなのである。この限定というのが、これを反省的に見た時に構築される世界観における「それ」の根元的な形であることは構造的に明らかである。反省的世界観において何らかの記述をもって表される他者が、その記述仕方によって記述される根本のところだと言い換えてもよい。従って、純粋行為性から純粋行為的な直知へと至る過程では、他が我に先立つのと同様に、我が知るのではなく、我にとってそのように直知させる、すなわち、我にたいして絶対の他が自らを表現してきているという主客の転倒があるのである。あえて表現という言い方を避けるのであれば、我々の直知する手触りが純粋行為的な我によってその手触りになっているのではなく、直知した絶対の他がそのようであることによってそうなると言ってもよいが、しかし、この絶対の他も固定化して存在するものではないので、この瞬間における純粋行為的な絶対の他との出会いにおいて、絶対の他がそのように表現していると言った方が適切であろう。つまり、絶対の他とは、我々にとってはある意味で人格的な存在であるということである。絶対の他とは、ある人格を持ち我々に常に向き合い自らを表現する如くにたち現れるのである。さて、ここにおいて、ようやく幼馴染みの意義について語る事が出来るのである。

 

 

4,幼馴染みという人格概念

  さて、ここまでの話を簡単に振り返ってみよう。行為とは非再帰的で純粋な対象と共に立ち上がるものであり、そこにおいて創造的な主体性を見ることが出来る。真の我とは絶対の他に向き合うことによって初めて我となる。つまり、我とは絶対の他との内に見られ、逆説的に我の底に触れ得ないものとして絶対の他があるのである。従って、我が我であるのは、そして、その我が平板に記述されるような我ではなく、真に創造的で生き生きとした我であるのは、ひとえに絶対の他が我を根底から支えているからなのである。しかし、支えていると言っても、我を実際的に支えているのではなく、絶対の他と触れあうところにおいて我が我であるという意味において「支えられ」、そして絶対の他を絶対の他がとして、我が「支え」てもいるのである。

 さて、ここでもうひとつ、人格の統一について論じよう。真の我とは現在において絶対の他とふれ合うなかで立ち現れるものであるが、そのように考えると、過去から現在、そして未来へと脈々と続く、この私という同一性も消え去ってしまうこととなる。ところで、現在の私にとって過去の私とはなんであるのか。それは、まさに我とは別のものであり対象ですらある、我にとっての他であり、そして「この私」を限定しているものである。この汝は絶対の他とはまた違ったものであるが、絶対の他が純粋行為性とともに立ち居でるものであるのに対し、過去の自分というような汝は、私から離れ、私自身を限定するようなものである。すなわち、真の我が絶対の他と純粋行為性の内にあるのならば、この汝はその純粋行為的な我、具体的な内容を持たない変数としての我の内容となるような限定をするものなのである。この汝は単に想定されたものだけではなく、この私の肉体、感覚、その他諸々の非限定的我において汝としてあるのである。しかし、このような個人的歴史限定における我が成立するのは、常に絶対の他と触れ合うところからでなくてはならない。どのような自己も、絶対の他を欠いては真に成立しえないのである。さらに、この絶対の他が純粋に未知で満ちた、ここから既知へと成り下がってしまうような存在であっては、この個人的歴史限定における我を支える絶対の他とはならないのである。なぜなら、その触れ合いの中に出で来る絶対の他とは我にとって純粋に未知であるのだから、底における自己限定においてはその内容たる汝、すなわち「この我」とは絶対的に別様なものである「我」を引き出さないのである。言い換えれば、そのときに出会う絶対の他としての人格概念は、我がその他に触れ合うなかで成立してきたということから生じる、絶対の他における限定の射程を含まないのである。

 美少女ゲームにおけるヒロインとして幼馴染みに匹敵する、いや、それ以上に普遍的な「転校生」という概念、「突然の出会い」、こうしたものから始まる二人の関係においては、また"新た"に「私とあなた」をはじめることになる。それと反対に、幼馴染みとの関係というものは、非常に長い射程を持った「私とあなた」という関係であるのだ。すなわち、幼馴染みという人格概念は、我を根底的に支えるものに他ならない。だが、この「幼馴染み」は、従来使われてきた意味での「幼馴染み」と全く別種のものであることは既にご承知のことだろう。我々の内で記号的になり、単なる自己の延長として置かれた存在としての「幼馴染み」ではなく、常に絶対的に他でありながらも我にとって最も近い他であり、その緊張感の中に生じてくるかけがえのない「あなた」を指す表現としての「幼馴染み」こそが、我々が追い求めた真の幼馴染みなのである。さらに、この幼馴染みが  我の内に入らず、そして我が汝の中に入らないという事は、我と汝が常に向き合い「続ける」ということを含んでいる。すなわち、純粋行為的な、我の根元的な方向性として常に向かい合い続けたということでなくてはならない。

ところで、純粋行為的に向かう、とは一体どういうことであるのだろうか。今までにはあまり触れてこなかったところであるが、ここで一度考えてみよう。純粋行為的に向かうということは、自己がなく単に他へ向かうということであるので、絶対的に無目的でなくてはならない。なぜなら、何かの目的とは、我があってこそ生じるものだからだ。私に利益があるということ以上のものを目的に見いだすことは出来ないのだ。私を支えてくれるから、私を肯定してくれるから、等といった理由から誰かを愛したところで、それは自己の利益を追求し、他を手段としているに過ぎない。さらに、向かう対象も-ここまでの理論に則れば当然の帰結であるが-分析的であるものであってはならない。分析とは、再帰的に見られた認識世界においてのみ成立するものであるから、分析可能な時点でそれは対象となり得ない。これは、娯楽というものを例にとってみれば分かりやすいだろう。例えば何か好きなものがあるとして、それが好きな理由を並べることも出来るであろうが、しかし、その並べた理由を満たすような集合体が好きなわけではないだろう。その好きなものが好きなのであって‼️それから得られる何かが好きなわけでも、それの要素が好きなわけでもない。まさに、無目的に非分析的なそれ自体を好きだと言うのである。純粋行為的に向かうとは、これに類するような形であると言えるだろう。さらに純粋行為的な我と不分となるとは、どこまでも究極的な孤独の内にあることに他ならない。私もなく、私以外のものも何やら不明瞭なものばかりである。だがしかし、その究極的な孤独の内にあって初めて真の他者に出会えるのである。これを踏まえてもう一度、幼馴染みと主人公との関係を再考していただきたい。我の認識世界のなかに入れ、固定化した存在としてしまった方が安定するにも関わらず、そうはしない。しかも、純粋行為的に向かうことには一切の理由がない。認識世界以前であるがゆえに絶対的に孤独であるような在りかたでありながらも、あなたを私の意のままになる存在として見ることは決してなく、寂しさを埋めるためでもなく、真のあなたに出会いたいからでもなく、ただひたすらにあなたへと向かうのみなのである。この向かうということも固定化せず、常に新たにあなたに出会い続ける。これを愛と呼ばずして何を呼ぶというのだろうか。この関係とは、私の内に、あなたのうちに入ってしまいそうな不断の緊張感のなかで出会う、そして出会い続けるあなたと私との関係なのである。そしてこの愛とは、純粋行為的に向き合い続けるという事から始まり、常に向かい合い続ける存在、常に新しくありながらも歴史的な"私"を映しているような、最も近い他人への、私を私たらしめる存在への、あまりに圧倒的な感情以前の感情、あえて表現するのならば「感謝」としか語れないが、しかしそもそも語れるようなものではない何かでもあるのである。

 さらに、ここにおいて、非言語的コミュニケーションとしての性行為を語ることが出来る。すなわち、単なる自己の性的欲求を充たすための性行為ではなく、あなたと極限まで接近しながら向き合い一つの行為を共に作り上げていく中で、究極的なところまで他としてのであるあなたに出会う行為としての性行為なのである。この段階に至って、「幼馴染み」とは、この私の、根元も、内容も、身体性も、全てを分析せずに、ただ純粋に「いる」私を肯定し限定する(肯定を目的として肯定するのではなく、限定を目的として限定するのではない)、究極的汝-アルティメート・ヒロイン-となるのである。

 新たに出会うヒロインであっても、このような関係を築くことは決して不可能ではない。しかし多くの作品においてはこのような関係には至らず、良くても純粋行為的な出会いを果たすまでなのである。さらに、幼馴染みとの関係にあって転校生との関係に無いものは、「あえて」という性質である。転校生との関係においては、互いに未知の存在へと、既知へと下すことを暗に目的としながら向かうしか無いのであるが、幼馴染みにおいては、完全な既知へと下ってしまいそうな存在を、常に未知へと置き続け、「私にとって」という形では語り得ない、本当のあなたへと向き合い続けようとすることの上に関係が成り立つのだ。真の幼馴染みとは、真の愛において成り立つと言えるであろう。

 

 

5,実践編への布石と理論的問題

 ここまでの話で、抽象的理論における幼馴染みについては語ってきたが、実践的な視点は未だ空虚なままである。読者諸賢も、何か本題にずっと入らずに、その前置きだけを読んでいる様な気分になったことだろうと思う。それは当然なことで、理論とはやはり後付けにしか過ぎないからだ。この実践的な視点を補完する成年向け美少女ゲームとしては、「LOVESICK PUPPIES-僕らは恋するために生まれてきた-」(企画・シナリオ:安堂こたつ, 2013, COSMIC CUTE)、そしてそのヒロイン「保科有希」と主人公「崇村虎太郎」が挙げられるだろう。この両者の関係とはまさに真の意味での幼馴染みである。しかし、これについては幼馴染み論考実践編にて詳しく研究する。心してお待ちいただきたい。

 また、今回の理論編においても、ある大きな問題を越えることが出来ていないことを記して置こう。それは、真の他者に出会うことの意味そのものである。どんなに他者に出会えたところで、そこに意味があるのか、そもそも何事も意味がないのであれば、全ての論に価値はないのではないだろうか。私は現段階の回答として、我にも汝にも統一されない、根元的な力の関係性に事実には還元できない創造があると考えている。これは「創造する」という事実にはならないものであるが、明言は避けておく。

 

 

6,謝辞

 この長い論考を、しかも理論の羅列ばかりで読みづらく中身のない論考を最後まで読んでいただいた諸兄には、感謝の意を禁じ得ない。出来る限りの論理明証性を保ちつつ読みやすい文章を心がけたが、達成されたとは到底言えない。実践編ではもう少し柔らかく書けるようにしたいと思う。

 最後に、この論考を書き上げるにあたって、数々の議論や文献購読に付き合ってくれた性美学研究会のメンバーに精一杯の感謝と愛を込めて、終わりとさせていただく。