性美学研究会

現代の性的コンテンツを哲学的に省察してぼちぼち載せるブログ。

固定化された世界における他愛という自己愛

アウグスティヌスの神への信仰は他のキリスト教的文脈同様に愛という表現をもってテキストに表れる。しかし、それは真の愛なのだろうか。彼の愛における対象である神は、完全善であり、原罪の為に自由意志を正しく用いることができない人間を恩寵によって正しく用いることを可能にする存在である。つまり、自己にとって利益となる存在である。アウグスティヌスは作中でしばしば神がどれほど価値ある存在であるかを力説するが、そのような存在へと向かう信仰=愛は自己に利益をもたらすという価値に基づいていて非常に利己的様相を帯びているように思える。 真の愛においては、対象の価値は全く捨象されていなければならない。対象の価値に依存する愛はギリシア的なエロスであり、結局のところは自己愛であり、真の愛、つまりキリスト教アガペーではない。真の愛とは、欲求的存在である自己を否定し、対象に最大の自由を認め、見返りを求めず純粋に対象へと向かう人格的行為でなければならない。対象からの愛(自己にとっての利益)を得ようとして愛するのではなく、ただ己自身の絶対的な愛を実現するのである。つまり、この上なく寂しいものである。しかしその自己を否定した愛という受苦的態度こそが、対他的執着を捨てて自己の実存を貫徹するという意味で、様々な不条理に揺らぐ不安定な自己という存在を逆説的に確立するのである。

 

以上は研究員の一人(以下、研究員s)がとある講義のレポートとして書いた小論文であるが、この論文には性美学研究会が目下研究中の作品『さよならを教えて』において語られる愛と全く同じ構造が見出せる。

さよならを教えて』は2001年に発売された18禁ゲームである。発売当初こそ評価されなかったものの、教育実習生である主人公・人見広介は実は精神病患者でヒロイン達は主人公の妄想によって作り上げられた虚構という(当時としては斬新な)設定が次第に受け始め、発売から17年経った今でさえ度々話題になる。

幼少期から両親に教師になれと言われ続けた主人公人見広介にとって価値や意味というものは教師になる事以外に存在しない(彼は教師を聖職者と呼ぶ)。しかし、教師になる事に失敗し、無価値・無意味な存在と化してしまった自己に耐えられない人見は、教育実習生としての「価値のある・意味のある」自己を仮構する。そして、自己を「先生」と慕ってくれる他者をも仮構する。

当初、彼は睦月(人見と同じ精神病院の患者)、となえ(人見の担当医)、瀬見奈(人見の姉)といった他者に向き合おうとする。しかし、他者に向かうという事は同時に自己に向き合うということである。他者ほど自己という存在を明確に照らし、白日の下に晒すものはない。他者である睦月は彼を人見「先生」ではなく、人見「さん」と呼び、浮遊するシニフィアンとしての自己を露呈させる。そういった他者に恐怖する人見は自分の思い通りにいかない他者が存在する世界から、自分の思い通りに行く虚構としての他者、つまりは自己しか存在しない世界に逃げ込む。そして、その世界に思い通りにいかない他者をも取り込もうとする。それは、天使としての睦月が怪物に喰われる夢のシーンや、となえの分裂シーンに象徴されている。

また一方で研究員sの語る愛においても自己、そして彼の語る自己を愛さない対象すなわち「絶対の対象」さえも虚構に過ぎない。何故ならば、全てが自己を通して形成されたものだからである。対象化されて語られる自己や絶対の他者というものはその生き生きとした現前性を完全に失い固定化されてしまっている。研究員sもまた対象からの愛を得られないという挫折を通して想定された自己や他者で世界を固定化し、自己を正当化しているに過ぎない。そういった点で人見とやっていることは全く変わらない

両者とも自己犠牲的他愛を語るが、彼等の愛は結局のところ想定、固定化された世界で完結しているという点で自己愛に過ぎないのである。