性美学研究会

現代の性的コンテンツを哲学的に省察してぼちぼち載せるブログ。

全年齢派駁論

初めに

 私の研究対象は性コンテンツ、特に成年向け美少女ゲームである。2018年現在成年向け美少女ゲームは窮地に立たされている。というのも、物語における性交渉描写の存在の懐疑派がはびこっているからだ。彼らは皆、口をそろえ主張する。性交渉の描写はプレイヤーの性欲解消のためのみにあるので、物語の質を下げるものだ、と。私はその主張に「否」の一言を以て応じよう。

 

 

1君と僕が出会うということ

 物語の構造は常に単純だ。それは、きみとぼくが出会い結ばれるというものだ。本章では全年齢派と私の討議のための共通の地平であるこの構造を探ることとする。

 ヒロインはあらゆる意味で転校生である。それは物語シナリオにおいてでもあるし、日常へ突如襲来する非日常性という異邦性という意味においてでもある。そして、物語は常にヒロインとの出会いによって始まる。つまり、物語は転校生との出会いによってのみ始まる。主人公は転校生に惹かれざるを得ないのだ。主人公は転校生に出会うことにより自己に覚醒するのだ。それは、日常という無意識のうちに非日常が紛れ込むことで、意識を向けざるを得なくなるということだ。これにより意識の主体が生じる。出会いと物語と恋の始まりはどこまでも受動的なのだ。

 では、なぜ無意識のうちから「意識する」という行為が生じるのか。それは、転校生が日常に対する非日常という差異性を帯びているからだ。では、差異とは何か。どこか違うということである。では、どこか違うとは何か。ある点では同じだが、ある点では異なるということである。そう、同じなのだ。転校生は主人公と同じであり、主人公と異なるからこそ、主人公の日常において非日常として意識せざるを得ない対象として浮かび上がるのだ。

 この構造は転校生との恋愛を描く創作物に限らず、あらゆるヒロインとの物語、あらゆるサブカルチャー、ひいては現実にまで言及する耐久性があると確信する。一例をあげてみよう。例えば、よく転校生と対置される存在に幼馴染や妹がいる。その今まで見知った存在がふと見せる「女」としての側面にドギマギするという様式美からもわかる通り、彼女らもまた転校生なのだ。

 閑話休題。この構造において主人公と転校生の恋の成就こそが全年齢派と私の共通の目標である。

 

 

2全年齢派の主張とその限界性

 恋と物語と二人の世界は、転校生の未知性を意識せざるを得ないということから始まるということは前章で示した。この惹かれるということこそへの第一エンディングへの第一歩であるわけだが、惹かれるだけでは恋の成就へとは至れない。なぜなら、主人公はヒロインの未知性に惹かれているのみであり、ヒロインその人に惹かれているわけでは決してない。そして、その惹かれるという行動自体が受動的なものであるからだ。真に結ばれるには、その人を能動的に愛さねばならない。真のその人に会う必要がある。これが最大の課題なのである。物語において、真のその人に出会えた、という結論は語られる。しかし、どの様に会ったのかと問うなら、イベントをこなして二人の絆が高まってなどというあいまいな答えしか出せず、真にその人と会い結ばれるという結論に真実の重みを持たせることができない。このブラックボックスの解明こそが全年齢派と私の共通した問題意識である。本章では、全年齢派のブラックボックス解釈モデルである「捨象モデル」について述べよう。

 この捨象モデルについて極めて簡単に述べるなら、転校生はもはや転校生ではないと断じるモデルである。

 冒頭に述べた通り、ヒロインとは転校生であり未知と既知の両方を併せ持つ存在である。しかし、この二つの記号は矛盾している。それがなぜ、一個人に同居しているのか。いや、この矛盾は未知と既知だけではない、彼女を構成する無限の記号は矛盾に満ちている。ツンとデレ、家族としての一面と恋人としての一面、翼と少女、非日常と日常、肉体と精神。これらは全てが少女を構成する記号でありながらも矛盾している。この矛盾は主人公が転校生と接する内にだんだんと主人公の視点に現れてくる。では、この矛盾に際した主人公はどうするのか、これに対し捨象モデルは矛盾の解消のために双対する記号に優劣または真偽の判定という策を提示する。一つ例を提示しよう。ツンとデレの二つの要素を合わせ持つヒロインがいたとする。このモデルではツンの背後に潜むデレこそ少女の本質だとする態度をとるのが捨象モデルなのだ。このモデルは、「真のその人に会う」を目標に無限の記号の集積たる少女に、その核ともいうべき本質を求める。強気な仮面の下には弱気な素顔があった。世界のために戦うヒーローは実はごく普通の少女だった。このような、気づきを通すことで、真のその人に出会うことができる。と、全年齢派は主張する。

 このような主張のもとに全年齢派は物語において性描写は必要ないとする。精神と肉体、理性と肉欲。これらは矛盾だ。どうして一人の少女に同居できよう。だからこそ、この二つの記号がともに少女の一記号であると認めたなら、少女その人は分裂し、物語の質は低下してしまうと彼らは唱える。

なるほど、彼らの主張は確かに論理的には正しいように思われる。しかし、残念ながらブラックボックス解釈に捨象モデルを採用する限り二人は結ばれえない。なぜなら、矛盾する記号を捨象することにおいて少女は実在の少女から認識内の少女へと変貌するからだ。なぜならば記号とはどこまでも、主人公の視点ではそう見えた、という認識の問題でしかない。その認識における矛盾に際し記号の優劣を決めたなら、実在をどう見るか、という問題ではなく、この視点はどう見るか、という問題へとすり替わってしまう。

 故に捨象モデルにおいて、無限の記号の集積たる少女の分節化は、絶対に決して僕ではない君そのものにたどりつくことはできない。

 

 

3抽象モデル

 全年齢派が用いるモデルが誤謬に満ちていることはご理解いただけたと思う。この解釈では、どうしても「君と僕が結ばれる」というエンディングへとたどり着けない。本章ではプロローグをエンディングへとつなぐ「抽象モデル」による私の解釈を打ち立てよう。

 そもそも捨象モデルの誤りはどこにあったのか。それはどこまで行っても「君」としか語れない存在であるヒロインを、「僕」の独断で規定したことだろう。これにより相対する「君」は消え去り、「僕」しか残らない。

 全年齢派は矛盾の先にその人そのものがあるとした。しかし、よく考えてほしい。この矛盾こそが、人間を空想のキャラクターではなく実在の人格たらしめるものではないか。どこまでも、自己の視点で解釈しようとも理論立てて解釈しきれないという部分に人格の重みがあるのではないのか。

 私が提唱する解釈は捨象モデルに対置させて「抽象モデル」と名付けておこう。この抽象モデルが実在の少女に出会うためにとる方策は、ヒロインが擁する、相反する二つの記号を共に認めることだ。一例をあげるなら、ツンに対しデレこそが本質だとした捨象モデルに対し、抽象モデルはツンもデレの矛盾的総合を認めそれこそが少女だとするのだ。またそれは少女がヒロイン以外でもあると認めることでもある。ヒロイン以外の側面(例えば、少女の家族にとっての側面、少女の友人にとっての側面)を認めるこということだ。そしてそれらの側面も実在であると認めつつも、僕にとっては僕の見え方こそがヒロインであると肯定することだ。この「認め、肯定する」という行為により主人公にとっての少女は単なる記号的存在を脱することができる。ヒロインに「人格」とでもいうべきものが生じる。この人格は、主人公による記号の切り離しによって生じた一面的なものではない。本来結び合わさるはずのない記号が有機的に結び合わさってできた立体的な人格である。この地点にきて初めて、ヒロインは認識された存在から脱却する。もはや、どのようにヒロインがあるのか、本当にヒロインはあるのか、といった認識などはもはや問題にならない。なぜなら、主人公はヒロインを認めたからだ。認識外のヒロインもヒロインの一つの在り方として認め、そのうえで自分の見え方こそがヒロインだと断じることによって、ヒロインは実在のヒロインとしての姿を現す。

 

 

4全年齢派駁論

 さて以上において、抽象モデルを採ることでヒロインの実在の人格に出会うことができた。ここに、未知性への志向という受動的出会いから、能動的にヒロインその人に出会うことができた。しかしまだ全年齢派を駁するという最大の目標が残っている。さて、少女を構成する記号の例として、ツンとデレ社会的役割とか精神的な記号ばかりを挙げてきた。しかし、実在の少女は精神のみではない。肉体でもあるのだ。ここ最大の矛盾である、精神と肉体がある。この矛盾に対し、実在の少女に出会うためには抽象モデルに従いこの矛盾を肯定せねばならない。僕の全人格をかけ、君は精神でもあり肉体でもあり、精神でもなく肉体でもないという矛盾を肯定せねばならない。そのためにはどうしても性交渉を描くことは必要だ。つまり、抽象モデルを採る限り、物語に性描写を欠くことはできない。もし欠いたなら、少女は空想上のキャラクターにしかなりえない。少年は少女を実在の少女とするために、性交渉において受肉させなければならない。

 性描写において少女は実在の少女になり実在の人格が姿を現す。ここにおいて、僕と君の人格的交わりが真に成立する。しかし僕と君が性描写において合一するというのは大問題である。というのも、僕と君はどこまでも矛盾した存在であるからだ。なぜ、君と僕が結ばれることが許されえるのか。前章で矛盾の総体である少女が少女としての個を保つ統一力こそが、存在の真実味であると述べた。ではこの段階で君と僕の間に働く統一力とは何か。それれ、転校生との遭遇で問題となった未知への受動的志向ではない。どこまでも矛盾でありながらも統一へと進むエネルギーこそ、私や全年齢派が夢にまで見た愛としか呼べない能動的志向であろう。では、矛盾した記号の統一により浮かび出る人格に対応するものは何であろう。それは、二人のセカイの人格ともいうものだ。その僕と君という絶対矛盾を統一するべき人格というものを何と呼べよう。その超越的存在は世界精神とか神としか呼べないであろう。

 

おわりに

 以上が全年齢派駁論である。ここまでお付き合いいただいた読者諸賢のうちにお気づきの方もいるかもれしないが、これは拙著「絶頂論考」(性美学研究会公式ブログ参照)と表裏一体をなすものである。一言で表すなら、理論と実践のような関係である。互いが互いを補完する役割を務めていると私は信じる。読了を心から感謝します