性美学研究会

現代の性的コンテンツを哲学的に省察してぼちぼち載せるブログ。

「ポストモダンAV論」研究論考

  • はじめに

 我々にとってアダルトビデオ、AVとは何か。我々にとってアダルトビデオは思考の対象なのか、単なる性生活のツールに過ぎないものなのか。まずこのことに関して論じないことには、真にアダルトビデオに迫ることはできないだろう。また、考察を始める前に一つ断っておくが、この論考の中でたびたび出てくることになるであろう「AV」と「アダルトビデオ」は、同一のものではあるが、ニュアンスとしては「オッパイ」と「おっぱい」程の差がある。が、この話に関して掘り下げていくことは本論考の脱線につながるため、割愛させていただき、論の中で使い分けていきたい。それでは、まずは「アダルトビデオは思考の対象か、単なる性生活のツールに過ぎないのか」ということの考察をしていこう。

 まずは、AVを観賞する、ということから考えてみよう。昨今のスマートフォンの台頭により、「AV鑑賞」は相当ハードルが下がった、と言える。これは、昔でいうテレビの役割をスマートフォンが代替するようになった、というだけではなく、国内外の違法サイトやFANZA(旧:DMM.R18)といった、スマートフォンなどでも気軽に閲覧、視聴することのできる環境が整ったことも一因に挙げられよう。この手軽さこそがAVを斜陽化せしめたのではあるが、この「エロいとは何か?」ということに関しては、後述していきたい。

 ともかく、この様にハードルの下がったAVは、より日々の自慰行為の「オカズ」(この呼称は長いうえに下品なので、次回以降「教材」と呼称していく)としての地位は上がったかに見えた。しかし、同じくスマートフォンの普及によりハードルの下がった成人向け漫画や、そこからの派生に近い同人誌などの台頭によって、今やAVの「教材」としての地位はどんどん下がってしまっているといえよう。

 また一方で、AVはその性質上「教材」以上の目的では用いることができない。これはAVの語りにおけるストーリー性のなさから来るものである。金額やかかる時間などを考慮するに、成人向け漫画や同人誌、アダルトゲームのようなどんでん返しやストーリー性を組み込みづらいからであろう。

 以上の点から、アダルトビデオは思考の対象にもなりづらく、「教材」としての地位もぐらついたものであると言わざるを得ない。しかし、アダルトビデオは自身にしかない一点の特徴によって、「エンターテイメント性」と「エロさ」と「人文的価値」を併せ持つようになるのである。本論考においては、「エンターテイメント性」、「エロさ」、「人文的価値」という三つのキーワードを軸にアダルトビデオの価値について論じていきたい。

 

 

  • 第一章 アダルトビデオにおけるエンターテイメント性

さて、まずはアダルトビデオにおけるエンターテイメント性についてである。このことを考えていく際、必ず念頭に置かれるべきでありかつ忘れられてはならないのが、「AVは卑俗なコンテンツである」ということである。ここにおいてアダルトビデオはAVとなり、消費財として「使われる」のである。

  AVのエンターテイメントとしての特徴としてまず第一にあげられるものは、「ストーリー性のなさ」である。例えば若妻を義父が寝取る、というストーリー展開で描かれるアダルトコンテンツがあったとしよう。官能小説ならば行為に及ぶまでの若妻の心に起きる逡巡や葛藤を描くし、18歳以上が対象の美少女ゲームではその後、すなわち寝取られた後の若妻のセリフや行動も描く。しかしAVはそのような枝葉を伸ばさない。あたかも建材として育てられ、建材として使われる木のように、一切の無駄や欺瞞なく性行為にのみ焦点が当てられる。これは、AVにおいて前後が描かれない、という事ではない。描かれるが非常に薄いのである。これは、そもそもAVにおいてストーリーというものを誰も求めていないという点、要するに「使えるならなんでもいい」というものとして扱われている点から生まれるAV独自のストーリーテリングと言えよう。また、同じような登場人物で描かれるアダルトビデオは全て同じような内容になる、ということにも繋がる。すなわち、レーベルの違いや性行為に持っていくまでの薄いストーリーの違い以外、突き詰めれば女優さん(昨今AV女優さんのことを「AV嬢」だの「セクシー女優」だの言う風潮がTVにまであるが、とんでもないことである。我々は常に受け手であり、彼女らは常に本当の意味での「造り手」である。我々が安易にAV嬢などと呼んでいい対象ではない。崇拝の対象であるべきではないが、尊敬の態度は忘れてはならない。)の違い以外の差はないのである。

  何が言いたいのかというと、「ストーリーのないただの性行為の記録映画に過ぎないものであるのに、造り手側の差だけでここまで大きな樹木になっているコンテンツである」ということである。すなわち、終わりがわかっているのに見てしまう映画なのだ。この点においてだけは、アダルトビデオも「君の名は」も「もののけ姫」も「七人の侍」も変わらないのである。「使われる」から「見直される」コンテンツであるという事だ。

  第二には、「視点」があげられる。ことアダルトビデオの世界において視点というものは近年益々注目を浴びてきている。VRの台頭である。恐らくゲーム業界よりも先に最盛を迎えるのではないだろうか、という程昨今のアダルトビデオ業界はVRに積極的だ。これはある種、美少女ゲームをはじめとした一人称的なものとは違い、アダルトビデオ鑑賞者が益々「性への主体性」を消失したことによるものであるのだが、それについては後に述べるとする。しかしVR以前のアダルトビデオにおいても、「視点」は他のアダルトコンテンツに比べて明らかに特殊な作りとなっている。

  例えば官能小説の場合である。これは小説という体裁をとる以上、どうしようもなく「神」の視点を持たざるを得ない。すなわち、視点において上部から状況の全てを網羅的に思考し観察する視点となるのである。また、美少女ゲームとも明確な差異がある。美少女ゲームはメインの視点が主観、または主人公の背後からの視点であり、他のアダルトコンテンツと違い自分と主人公がより密接に重なり合うものである。これにより主人公=私という構造が生まれる。

  しかし、アダルトビデオは全く別の視点を持つ。今日に至るまでアダルトビデオも様々な視点のものが生まれてきた。主観視点物や盗撮物などがそうである。そして、所謂普通のアダルトビデオの持つ視点は、常に様々な視点を持つ。「こういう視点」と明文化出来てしまうような視点ではないのだ。場合によっては盗撮的であり、場合によっては我々が実際の性行為においては絶対に持つことの出来ない視点にもなる。そのような視点は、神の視点でも私の視点でもない。第三者の視点であることは確かであるが、それは全てを包括する視点ではない。そのような第三者的視点に名をつけるとすれば「目撃者的視点」とでも言えるだうか。しかしこの視点は決してアダルトビデオに限った視点ではない。他のアダルトコンテンツで言えば、成人向け漫画における視点もこの視点になっている。これは、官能小説と成人向け漫画との違い、すなわち読ませるか見せるかの違いが最も大きいのだが、視点という点ではアダルトビデオと漫画はよく似ている。我々は行為者ではないし、全ての心情や言動を網羅できる訳では無いが、どうしようもなく目撃してしまっているのである。

  そして最後に-そしてこれが最も今後の論にとって重要な意味を成すのだが-「不完全さ」というエンターテイメント性が存在する。アダルトビデオというコンテンツ自体が不完全なものなのである。

  まず、映画として不完全である。そもそも最近のAVはほぼ映画と呼べるほどのものでは無い。オムニバス形式のものも多く、それらも単に衣装や場所の違いくらいしかないからである。ストーリーのなさに関しては前述したように、他のアダルトコンテンツは重厚に描かれる性行為以外の描写が極端に少ないことからも伺える。

  更に、「教材」としての強度、という点からも不完全である。時に、AVにおいてはとてつもないパロディーAVが作られることがある。成人向け漫画や美少女ゲームにおいてもそのようなものがない、とは言えないが、その模倣の方法、酷さ、くだらなさは他のアダルトコンテンツの追随を許さない。最早「教材」としての販売ではなく、単にではなく笑いを取りに来てるのではないか、と邪推してしまうものさえある始末である。

  そして、ここが1番の重要な点であるが、他のコンテンツと違い、アダルトビデオは人間が演じ人間が行為に及んでいるものなのであり、その点で非常に不完全さを表出させてしまっている。すなわち、人間であるからこその不完全さから逃げられないのだ。あげられる例は枚挙に暇がないが、例えばAVのおねショタものなどは、AVにおける年齢場の制約からどうしても成人男性の小学生コスプレも目に入れる必要がある。また、成人向け漫画や同人誌に散見されるような胸が大きく、腰は細く、美人などというものはそう多くない。胸が大きい女優さんは往々にして体格が良いし、美人な女優さんは往々にして胸は控えめなものである。また、たまにいる凄まじく理想的な体を持つ女性であっても、お尻におできや大きいホクロがあったりする。すなわち、男性が求めるような「完璧な」女性はAVの世界には存在しない。しかも、そのような登場人物達が、これまた「人間的な」動きをするのだ。もっと端的な言葉でいえば、カメラの向こうの誰か(ディレクターや監督か、ADさんかは分からないし、知る必要も無い)を見たりするのだ。普通のAVでも萎えるが、主観物AV(VRものに近いが、VR技術無しに行われるものである)でさえ起きる。このような人間であるからこその、どうしようもない、誰も悪くない不完全さがアダルトビデオにはある。

  しかし、これらの不完全さは全てエンターテイメントとしてのアダルトビデオの質を上げるものなのである。そのような不完全さは笑いを産む。1999年に自ら命を絶った二代目桂枝雀の言を借りるなら、「笑いとは、緊張の緩和あるいは緊張と緩和の同居」なのである。性行為という緊張材料に対し、これらの不完全性という緩和材料が交わる事で起きる笑いである。しかも最も大きいものが「人間の不完全さ」に起因するのだ。これこそがエンターテイメントと言えずして何をエンターテイメントというのだろうか。

 

 

  • 第二章 「エロさ」とは何か?

さて、第二章では「エロさ」の本質について探っていきたい。まずは、アダルトビデオに限らない、大括りの意味での「エロさ」を考えていこう。我々が「エロい」と感じるのはどのような時だろうか。私は、「エロさ」には三つの要素があり、このうちのひとつでも満たしていれば我々はエロいと感じる、と思っている。その三つとは、「経験知としてのエロさ」「あってはならない、というエロさ」「異常であるというエロさ」である。

一つづつ考えていこう。第一の「エロさ」すなわち「経験知としてのエロさ」である。これは例えば、女性の谷間であったり、ミニスカートであったり、グラビアアイドルの水着であったりといった、世間の考える「エロい」ものである。ここに我々は新しい発見を見ない。これは単にエロいのであって、「驚き」すなわちタウマゼインとして我々に降りてくるものでは無い。このようなエロさは消費材であり、慣れが来る。そして、経験知という性質上我々がひとつのアダルトビデオ、ひとつの同人誌、ひとつの美少女ゲームを二度目以降見た時には必ずこのエロさに落ち着いてしまっている。これこそがアダルトコンテンツにおいて消費が繰り返される原因であると共に我々がクリフハンガー的によりエロいものを求めてしまう原因になる。

第二、第三の「エロさ」は、我々はタウマゼインとしてのエロさを見出しうる。第二の「エロさ」すなわち「あってはならない、というエロさ」であるが、これは言葉を変えれば「背徳感」とも言えるだろうか。やってはいけないことや、あってはならないことをやる、という焦りや焦燥感が性的興奮に繋がる、というものであり、また下品さなどもこの「エロさ」なら属するが、これは何も人道的に徳に反することだけではないのだが、これは第三の「異常であるというエロさ」の際にも考えていきたい。

さて、第三は「異常である、というエロさ」である。背徳感に似るが全く違うものである。およそ日常生活において、エロいものというのは基本的には忌避される。すなわち、日常生活においてはエロいものそれ自体が異常なのである。しかしこの異常さは、必ずしも振り切れれば振り切れるほどエロくなるものでは無い。例えば、電車に乗っている時突然目の前に全裸の女性が乗ってきたら悲鳴をあげて逃げる人もいよう。しかし、とんでもなく短いスカートならば単にエロいで終わる。我々はすべからく、エロさを「異常」として認識する。それを意識の有無に関係なく我々が受容しているとき、我々はエロさを認識できるのだ。そして、正常と異常の境目において我々は最もエロさを感じる。人によってはチラリズムと呼び、人によっては着エロと呼ぶが、これらは最たる例である。私はこの境目を「正と性の境目」と呼んでいる。

さて、「エロさ」の本質の話はこの辺りで置き、再びアダルトビデオの話に戻そう。「正と性の境目」という「エロさ」はアダルトビデオにおいて根幹をなすものである。あまり普段からアダルトビデオ鑑賞を行わない人はよく勘違いをするが、アダルトビデオのエロさの根幹は単なる性行為の「経験知としてのエロさ」に留まるものなどでは断じてない。ひとつは単に通常性行為において存在しないほど下品である、ということがあげられる。女優さんが必要以上に喘ぎ声を上げたり、腰を振ったりすることであるが、これは直感的に理解しうるエロさであり、直接的で思考に左右されない。目の前にボールが来たから目を閉じた、という程度の反射的興奮でしかない。「経験知としてのエロさ」は超克するが、根幹にするには細すぎてしまう。問題はもうひとつの方である。

先程述べたように、日常において「エロい」とは異常である。そして大部分のアダルトビデオは日常から脱却し性行為に及んでいく。すなわち、アダルトビデオは常に正常から異常に脱却していく文化作品なのである。このことの証左として、よく巷で流布している「AVは最初のインタビュー、もしくは前戯が一番エロい」という言説がある。往々にしてこの言説は大してAVを見た事のない中学生から半ばハッタリとして発せられるが、馬鹿にならない意見である。インタビューや前戯は先に述べた「正と性の境目」として明確なところであり、最も分かりやすい点だからである。話は逸れるが、このような言説が信憑性に今ひとつ欠ける最も大きい理由は、インタビューや前戯はエロいシーンとして話題にあげる割に、脱衣シーンを一切あげないからである。

そして、このような異常に向かうアダルトビデオにおいて、性行為中、すなわち「異常」のさなかに日常、正常、正が生まれる瞬間がある。前述した「不完全さ」が出てきた瞬間である。例えば性行為の最中一瞬だけ女優さんがカメラの向こうの誰かを見たとしよう。このような視点、何かを確認する視点は目として、また思考としては正常である。この状態、すなわち性において正が意識される瞬間こそ最も「エロさ」があるのであり、この「エロさ」は他のアダルトコンテンツには散見されない。なぜなら他のコンテンツは不完全さを排除しようとし、アダルトビデオは不完全さを内包するからである。このようにして生まれた「正と性の境目」は、ひとつとして同じ発露はない。そこには女優さんの、また状況や時と場合の違いが常に存在している。これによって一つひとつの境目は一つひとつ別の括りとしてとらえられ、別々の射程を持って我々に向かってくることで我々は真の意味で「驚き」を感ずるのである。性を売り物にする職種の人が、人であるが故に我々と同じ正を持たざるを得ない、という点にこそ、アダルトビデオ特有の「エロさ」がある、と言えるのではないだろうか。

 

 

  • 第三章 アダルトビデオにおける人文学的価値

さて、一章二章とアダルトビデオの「エンターテイメント性」「エロさ」について考察していったが、最後の章として、アダルトビデオにおける人文的価値について考察し論じていきたい。先に断わっておくべきことであるが、AVに直接的な意味として人文的価値を見出そうとするのは非常にナンセンスである。あくまでAVはAVであり、「教材」として以上の意義など存在しない。しかし、目の向け方、アダルトビデオというもののとらえ方によって人文的価値と言わざるを得ない何かにぶつかってしまうのである。すなわち、アダルトビデオにおける人文的価値がそもそも偶発的なものである、ということを我々は忘れるべきではない。

前置きはこのくらいにしよう。アダルトビデオの人文的価値についてである。先程から何度も述べているように、アダルトビデオと他のコンテンツとの明確な違いは「人による不完全さ」である。これは「教材」として用いられる時は単純な弊害でしかない。所謂プレモダン-アダルトビデオ史における「プレモダン」とは、まだアダルトビデオ以外のアダルトコンテンツが発展しておらず、そのアダルトビデオも黎明期から最盛期になっていった時代、すなわちVHSの時代である-においてはそれでも「教材」として価値があったが、ポストモダンの時代においてはより「完全な」コンテンツは多くある。特に二次元作品の台頭という抗いようのない波は、アダルトビデオの「教材」としての価値を著しく低くしてしまった。しかし、このような「教材」としての価値の低下は新しい発露を見出すきっかけとなったのだ。すなわち、「不完全さの発見」である。例えば女性のプロポーションひとつをとっても、美少女ゲームや成人向け漫画においては事実上いくらでも書き直しがきく。「完全」を目指すことが出来る。しかしアダルトビデオは違う。「不完全さ」は「不完全さ」のまま押し通さねばならない。これはポストモダンになって、すなわち「教材」的価値としての対抗者が現れるようになってから初めて考えられたアダルトビデオの本性のひとつである。

そして、この本性はあるものの本性に大きく重なる。それは何か。紛うことなき人間の本性である。我々人間は、我々人間それ自体として完全に成ることはない。しかし、完全を目指すべきであるし、完全を目指す志向にこそ価値がある。それこそ人文的な意味での価値であり、完全かどうかではなく、完全を志向できるかどうかに価値があるのだ。

その点において、すなわち「不完全さを超克しようとする不完全」という存在者として、アダルトビデオよりもあてはまるアダルトコンテンツは存在しない。なぜなら、「完全を目指すこと」こそが「教材としての価値を高めること」に直接繋がり、それこそが「企業努力」であると認められる世界だからである。このような不完全、自己を否定しより高みに手をかけようとする不完全という存在そのものが「人」的なのである。

アダルトビデオは人である。これは、アダルトビデオの持つ本性が人の本性と重なる、とう意味であり、かつまたアダルトビデオにおける人の重要性、という意味でもある。そもそも、他のアダルトコンテンツと違い人が性行為を行う、というその作品形態からして端的に人間中心的であろう。「人」を中心とし、「人」に価値を置いて何かを語るという形態こそが、アダルトビデオが否応なく含蓄的に人文的価値孕んでいると言わざるを得ないのではないか。

また一方で、アダルトビデオの「エロさ」、すなわち「正と性の境目」ということにも人文的な価値を見出さずにはいられない点がいくつか存在している。アダルトコンテンツにおいてだけではないと思うが、「性的なもの」は必ずしも卑俗なものではない。なぜなら、性に関するものは他との混ざりが悪いからである。つまり、どのようなものであっても性的になると途端に性の匂いを帯びる。そしてまた、性は純度を際限なく高めていくと、我々の生きる世界を越え出て、より高次の世界へと飛び去っていく。これに関しては理解しうるものではないだろうか。完璧なプロポーションは興奮しない、というものである。二次元の美少女の胸の大きさ問題のようなものとも重なるが、人は歪でなければ興奮できない。真に性的なものは「教材」的価値を失うのである。

そしてまた一方で、我々の生きる日常世界は卑俗にまみれている。「性的なもの」に比べて混ざりが良すぎるのだ。すなわち、この世はカオス的であって、秩序的にはできていない。つまるところ我々の世界が感性界である、ということであるのだが、そのことから、「正と性の境目」という言葉そのものが、転倒していくことが分かる。すなわち、日常世界において、正常なものは日常生活そのものであり、性的なものは異常である。この構造によってこそ、アダルトビデオは「正常から異常への飛躍」が生まれる。しかし、ここにおいて性がその純粋性によって知性界へと飛翔し、正がそのカオスによって感性界へと堕落していくことによって、正ではなく性こそが志向されて行くべきものにってしまう。これによってアダルトビデオという構造そのものの持つ「エロさ」、つまり「正常なものが異常なものへと向かっていく」という「あってはならない、というエロさ」もまた揺らいでいく。

この視点によって、我々はアダルトビデオを真の意味で「教材」的価値以上の価値があるものとしてとらえることが出来る。すなわち、我々は「教材」という卑俗なものについて語りながら、その実感性界においてある日常世界から、知性界における性にまで手をかけようとしてもがいているのである。そしてその至らなさ、不完全さもまたアダルトビデオのアダルトビデオ性であり、その境目を擦るような立ち位置、「正と性の境目」もまたアダルトビデオ性なのである。

 

 

  • 結びに変えて

さて、ここまでアダルトビデオについて三つの視点から語ってきた。これら三点は、いずれも「ポストモダン」なのか、という疑問や批判、非難の声が聞こえてくるようであるが、断じてポストモダンにおけるアダルトビデオなのである。なぜなら、「教材」の世界においてプレモダンのアダルトビデオは頂点に君臨していたのであり、「エロさ」や「教材」としての価値など考えるまでもなく、「エロかった」からである。

すべからくアダルトコンテンツは「エロさ」を追い求めるものであるが、それぞれのコンテンツの特性や持つ意味、価値を真に光らせるのは斜陽となってからである。そして、アダルトビデオにおいては、ビデオという画質の上で成り立っていた作品であり、DVDの画質には耐えることが出来ない。その点において、AVは「死につつある」コンテンツなのである。極一部の専門の訓練を受けた者を除き、我々は不完全なエロさを使って欲望を発散させきることは難しいのだ。時代が、すなわち我々自身がアダルトビデオの時代の終わりを告げているのであり、そしてまたちょうど日が沈む瞬間にこそ最も美しく輝くように、アダルトビデオは価値を高めきっているのである。このような時代に形を変えながら価値を持つアダルトビデオこそ、「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」と言わずしてなんと表現できるだろうか。