性美学研究会

現代の性的コンテンツを哲学的に省察してぼちぼち載せるブログ。

愛なき告白

 

まず始めに好きと愛が存在するものだと仮定し、両者が互いに異なるものだと仮定する。そして我々が熟知するように好きには何らの対象を必要とする。ある特定の人物が好き、その人物のどこか一つの部分が好き、さらに人から離れて、物体や概念も好きの対象になり得る。そして好きの対象選択の任意性、可分解性(つまり我々はいかなるものを好きの対象に出来、さらにその一部のみを対象として捉えることができる点)から、我々はしばしば一部だけを対象だとすることを好きと言い、全体を対象にすることを愛と言う。しかしそれだと愛というのは好きに対しての相対的な概念でしかなく、我々が愛を好きよりも尊ぶ理由など全くない。もちろんそれはそれで真実を言い当たっているのかもしれない。

 

 

 

しかしもっと考えを深めよう。思うに好きと愛の違いはその対象の違いではなく、そもそも対象を必要とするかどうかではないだろうか。つまり対象を必要とするのが好きで、愛には対象を必要としない。しかしこれはかなり我々の直観に反してしまう。我々はいとも当たり前のように「私はあなたを愛している」と言ってしまう、言えてしまう。それはつまりあなたは私の愛の対象ということではないだろうか。だが焦ることはない、続けてみよう。「私はあなたを愛している」に違和感を覚えなくとも、「私はあなたの目を愛している」にはいささか違和感を覚えるのではないだろうか。この分での愛は好きとはほぼ同義だ。強いて言えば大好きで済ませられる。察するに愛するの前後は対等でなければならない。知性体の私はデバイスあるいはオブジェである足とは釣り合わない。しかし私とあなたの場合、私は私であり、あなたに対してのあなたである。あなたは私に対してのあなたであり、あなた自身も私である。つまり一つの文ではあなたと私を使い分けしているが、我々は本質的に私とあなたという二つの要素を併せ持っており、完全な対称をなしている。そこでしか愛が生まれないということだ。つまり「私はあなたを愛している」ではなく、「わたしはあなたというわたしと同質的な存在を通さなければ愛は生まれない」。「わたしー愛-あなた」という状態でしか愛は存在し得ない。しかしそれはあなたがわたしの愛の対象という意味ではなく、我我の間でしか愛は生まれないと言うことだ。そして我我の愛に対する考察はもはや終わったのも同然だ。なぜなら我我はこれ以上愛については何も知らないのである。愛の内容は?愛の理由は?愛の目的は?我我は一つの根本的命題として愛を永く語ってきたが、その在りか以外については何も分からない。いや、もう一つあったのかもしれない。それは愛とは愛するという行為だ。だから我我は「私はあなたを愛している」と言い、「わたしはあなたが愛だ」とは言わないのだ。それ以上のことはもはや何も語り得ない。しかし思考を転換してみよう。語り得ないのではなくて本当にないのでは?愛するという行為には内容も理由も目的も何もない、一つの純粋行為であろう!それの行為自体がその内容も理由も目的も果たしている。つまり愛することは他の行為に分解できず、我我は愛するから愛し、愛するために愛しているのだ。それならば愛は最高善に値する。なるほど、ならばわたしは誰をも愛して善いし、誰をも愛することができるじゃないか!我我はただ愛すればいいんだ!

 

熟考 沈黙 気付き 

 

・・・・・・

 

  気付けばもはや手遅れだった。最高善など口にするべきではなかった。いや、それを口にすることで気が付いた。最高善は我々の志向するもの、我々の究極的目的に値するものだ。つまりそれにちなんで我々が愛を呼ぶとき、それはもはや 愛 を「愛」として固定化し、我々は「愛」することを愛し、「愛」するから愛し、「愛」のために愛してしまう。 愛することは愛を「知る」こととは二律背反で、愛を「知る」ことによって我々は愛の未開で未明なヴェールをはがしてしまい、私に愛は永遠に失われていった。

 

  だから私があなたに告白するとき、「好きです」と言うが決して「愛している」とは言わない。