絶頂論考①ー射精に関する一般的考察ー
ポルノコンテンツは人間本来の性的衝動に根差しながらも、それをある種超克した表現技法を取ることがままある。本論考では射精と電撃の誇張にも思える表現の背後に潜む、人間の原初的な在り方を考察する。
今回考察するのは、主にアダルトゲームやアダルアニメに見られる射精シーンにおける白いフラッシュについてである。
まずは射精シーンにおける白いフラッシュへの共通理解を築きたい。アダルトゲームでは、性的絶頂を迎えるシーン(女性に用いられる場合もあるが、男性視点というコンテンツの制約上、射精シーンに主に用いられる)において、その絶頂を伝えるための技法として、パソコンの画面全体を白く明滅させるというものがある。射精の脈動に伴い、白い光が数度画面を包むのだ。
不思議なことにこの白光は、私が経験してきたほぼ全てのアダルトゲームに共通化するのだ。
現実にはあり得ないこの表現の裏側には、性的絶頂時における真理認識という命題が存するというのが私の主張である。
アウグスティヌスの照明説で、真理やその周辺にある諸々を認識する仕組みとして、真理の光という原理が用いられた。我々の精神は神という、大元とも言うべき一なる真理によって、照らされている。この真理の光に照らされているからこそ、人は真理を真理だと認識でき、真理を追い求め、そして根源の真理とも言える神を志向するのだ。このアウグスティヌスのいう真理の光とは、アダルトゲームにおいて、絶頂時の白い明滅として比喩的に表現されるのではないだろうか。われわれは、性的絶頂を迎えるとともに、真理の光に照らし出され、真理を認識し、神を志向するのである。
なにも、この射精シーンの白光を神や真理といったものに関連付けるのは、キリスト教圏にかぎられた話でも、過去に限定される話でもない。
例えば、日本においては、かの後醍醐天皇が帰依した立川流という密教の一流派がある。そこでは、釈尊が至った悟りとは、性的絶頂の瞬間を示すのであり、男女間の性交を悟りへと至る道とした。ここから、仏教においても、悟りという根源的なものへの接続が性的絶頂によりなされるという解釈が見てとれる。
現代においても同様である。「賢者タイム」という語がある。この語は射精前とは打って変わり、射精後の落ち着いた男性心理を表すものである。この賢者という語がより真理に近づいたものとしての賢者に、無意識的であるとしても、由来するのではないだろうか。
さて、以上のとおり、光の明滅という射精表現の背後には真理認識についての人間の働きがあることを示した。しかし、この絶頂論考はここで終わらない。この射精に関する一般的考察の後には、電撃に関する一般的考察と真理に関する一般的考察を準備している。気長に待っていて欲しい。
少女性愛の心理的分析及び人間の本性的美・甘美・快楽の人類学的考察②
純粋客体としての対象はなんらかの神聖な象徴を付与させられることも見受けられる。例えば純粋客体の内もつとも純粋な存在は神であり、神は論理学的規定を超越し、各人が様々な性質や人格を投影する。その際に必ず対象が客観として「対象化」される認識において、各人は対象に主観的想念を付与する。この意味で対象は理想化や幻想化され、その対象の自由さに比例し幻想も大きくなる。 次に「純粋客体としての少女」の現代人の幻想を解明する。対象は認識される場合、認識者のバイアスがかかるわけであるが、そのバイアスが後天的なものか先天的なものかが問題となる。例えば我々が「警察官」を認識し理解する時警察官という概念は人間の段階的本質を有さない付帯的概念であるから、後天的なものとわかる。しかし少女の場合は幼さや庇護的存在というバイアス自体が彼女らの身体的発現として本質を有している。よって少女幻想とは必然的幻想であるとも考えられる。
少女性愛の心理的分析及び人間の本性的美・甘美・快楽の人類学的考察➀
少女性愛が日本とくに現代ポップカルチャーにおいて広く認知されている要因は何であろうか。少女性愛すなわちЛолита - Lolitaなるものが広く知られた始まりはナボコフの『ロリータ』である。だが、その文学や現代の表象は古来より様々な形で現れた人間心理の普遍的状態である。このことを本考察では述べることにしたい。心理学者は本問題について多くをフロイドの学説としてフェティシズム(fetishism)的な倒錯とするが、宗教学においてフェティシズムは神聖なトーテムや呪物を対象にした心理的志向性である。すると古来よりフェティシズム的なある対象を崇拝し自己のアイデンティティを保とうとする行為は宗教的聖を帯びる。その現代における現れの一つが性としての少女性愛である。では何故古代におけるトーテムや呪物が現代において少女に移り変わったのか。これは少女が持つ間主観的な性質による。〜私はこの性質なるものを客観的な真とは言わないが〜 すなわち少女はその庇護的性格を有する過程に存在し、少女を少女とみなすことが可能な大人にとっては自らより知力や力が劣るものとして存在する。このことはつまり無条件な優位性を持つ。加えて自己の存在する段階より下に存在する少女に対し「書き込み欲求」すなわち「擬似的な自己生産欲求」が生じる。これは教育というものが存在することとも関係する。すなわち自己の内面の知識や思考を相手に教授し自己の内面を相手に投射するということである。この表象はチベット密教における灌頂の儀礼によく現れている。チベット密教やヒンズー密教主に左タントラは阿闍梨(グル)の精液を弟子に飲ませ菩提心を注入する儀礼が存在した。〜現代はヨーグルトで代用されるが〜この様に自己よりも段階が下に存在する対象は自己の内面を描くキャンバスともなる。そして、この対象を私は純粋客体と呼ぶ。何故ならば単なる客体は前提に教授や書き込み欲求が少ないからであり単なる客体であるからである。
ヒロインは主人公に愛を持つか①
「何故ヒロインは主人公が好きなんだろう」
このような疑問を抱いた事は無いだろうか。
性美学研究会として、この疑問にも真面目に取り組んで行こうと思う。
陵辱や痴漢等を題材にしたものでなければ、エロゲはほぼ必ずヒロインとの恋愛関係を持つことになる。そうした作品の多くで、ヒロインは主人公への恋愛感情を抱くように思われる。しかし、彼女らは真に主人公への愛を持っているのだろうか。
さて、まずは議論が煩雑にならないよう、いわゆる純愛系、主に学園を舞台として繰り広げられる恋愛について述べようと思う。
作中において、本当に多くのヒロインは主人公に恋をする。だが、彼女らの恋には不可解な点も多い。
ここで上述のような疑問を抱く際の条件を下記に並べる。
・無条件な主人公への恋
・無条件な主人公への信頼
・無条件な主人公への感謝
さて、これらの要素について心当たりのある読者も多いことであろう。
プレイするなかで、主人公に対してたいした理由もなく一途な恋をするヒロインに出会った事は一度や二度ではあるまい。あまりのご都合主義に辟易としたこともあるだろう。恋に理由はない、と言ってしまうことも出来るのだろうが、しかしそれにしたってあまりにも唐突で理解不能な恋愛感情を持つヒロインのなんと多いことか。
まさしく、主人公とヒロインだから、としか言い様の無い恋なのである。
問題点を明らかにしたところで、続きはまたいつか。
研究員aがお送りしました。
『Dies irae』考察➀
はじめまして、会長です。会員の力で性美学研究会はここまでこぎつけました。ブログが開設されて間もないですが、私としては、少しづつ美少女ゲームレビュー・考察をしていこうと思います。
そうですね。初回なので、流行に乗ったものから紹介をしていきましょう。さて、本日紹介しますのは『Dies irae』。そう現在絶賛放送中のあのアニメの原作です。そして、私がプレイした初めての美少女ゲームでもあります。
さて、この『Dies irae』についてレビューをしますが、批評空間のようなただのレビューではなく本研究会らしく哲学的レビューとしましょう。そして、今後のブログのネタが尽きてしまうと困るので今回は『Dies irae』の世界観の考察のみとしましょう。
私のねじまがった解釈によるとこのゲームは、シナリオライターが独自のアレンジを加えた新プラトン主義的な世界観により成り立っています。新プラトン主義において、世界とは、一である神から流出したものであり、流出したものは神へと回帰していくという、神の自己表現の場としてとらえられます。
作中の神であるメリクリウスは、未知の結末を求め、さながらニーチェのような永劫回帰の世界(完全に同一の物語の繰り返しではないので厳密には違う)を流出させます。それに対し主人公の藤井蓮やラインハルトやマリィは、神メリクリウスの似像として描かれながらもそれぞれの方法で神メリクリウスを志向します。このことは新プラトン主義的には、一である神による自己理解の過程(知る自分と知られる自分への分裂)と解釈できるでしょう。
しかし、ここからは新プラトン主義にはない完全に独自の未来予想的な思想が展開されます。知られるという客体であったメリクリウスが知るという主体である主人公らに完全に知り尽くされるのです。こうして一への回帰が達成される訳ですが、知られる自己と知る自己という本来同一のものが二重にあるうえ、知られるという客体が知るという主体により、理解されきることで、知る自己の優位性が示され、知りきった自己であるマリィを中心とした新たな世界が新たな一である彼女から流出しするのです。
ですが、新たな神マリィは知る自己ではありましたが、知られる自己ではありません。この時点において今までは知る自己であった神は、知られる自己へと変容し、新たな知る自己生み出すのです。この神の代替わりとも表現できる自己理解が繰り返されてくるのです。
つまり、『Dies irae』における世界とは一である神の果てしなく続く自己理解の過程なのです。
性美研紹介その①
これからちょくちょく性美学研究会について紹介したいと思います。
今回はメンバーについて。
性美学研究会の構成員は、実のところ会長と研究員aしかおりません…。
しかし、当の会長はあまりネットに強くないので、もっぱら記事の更新などは私こと研究員が行っています。
実は私、エロゲ歴は結構短いのです。会長に引きずりこまれてあれよあれよという間にこんなブログを運営するまでに至ってしまいましたとさ。
今回はこんなところで。
話題に困ったら研究会の紹介を行います~。